第4回「アフリカ子ども学の試み:そのねらいと展望」(3)

講 師:亀井 伸孝(愛知県立大学 文化人類学/アフリカ地域研究)
日 時:2014年4月26日(土)13:00~14:30
場 所:慶應義塾大学(三田キャンパス)南校舎445教室


■質疑応答

○安藤 とてもおもしろい話をしていただきました。ここからは、カフェらしくお菓子やお茶で一服していただきながら、ざっくばらんなコメントや感想などをお伺いしたいと思います。


○質問 お話ありがとうございました。都内の幼稚園に長く勤めている者です。ふたつほど質問させてください。ひとつは、アフリカの子どもたちは集団で遊ぶことがあるのかどうか。たとえば5~10人で、鬼ごっこをやるなどです。もうひとつは、日本の幼稚園だと、たとえば泥団子遊びで、土と泥の違いを子どもが知っていくといった、遊びの中から学ぶことがありますが、アフリカでも遊びが知的なものにつながっていくような傾向はあったのか、教えてください。


○亀井 まず子どもたちの集団遊びに関してですが、多くは2~3人、3~4人の集まりでさまざまなことが行われていました。狩猟や採集に素材を得たような遊びなどもあり、たとえば年長の10歳や12~13歳の子どもが刃物などを使っている様子を、年下の子どもがじっと隣で見ているなどの場面がよくありました。5~10人の集団での遊びの頻度はそれほど多くありませんでしたが、サッカーのように球を転がして対戦するような体系的な遊びの場合は、5対5の計10人ぐらいで遊んだり、さらに参加者が増えて膨れ上がったりということもありました。10人や15人で追いかけっこをしてボールを蹴りっこする。ボールに穴があいてつぶれると、バナナの葉っぱか何かをぐるぐる巻いてツルで結わいて即製のボールを作って遊ぶといった具合です。そのあたりの器用さは、さすが自然の中で育つ子どもたちですね。ただ、通常は兄弟、いとこ、あるいは隣の家の子どもどうし2~3人で遊ぶというケースが多かったです。少年も少女も、似たような状況でした。


遊びを通じて学ぶということに関しては、子どもの間で伝承されている知識や技法だと思いますが、小さい子が年長の子の遊びについていって、おもちゃをつくるのに便利な素材がこの辺によく生えているといったことを見て体で覚えていっているように見受けられました。


○質問 先生は『森の小さな〈ハンター〉たち』の本の「あとがき」に、バカの森の文化を否定するのでなく、雨季の間だけでも開かれる学校があってもいいのではないかというご意見を書かれていますが、これはどのようなお考えからでしょうか。


○亀井 アフリカで雨季と乾季がはっきりしている地域では、たとえば乾季には川の水量が少なくなるので魚を捕りやすい、森のなかで昆虫の幼虫がたくさん採れるなどの事情で、タンパク源を確保しようとおとなたちがみな狩猟採集に出かけますが、子どもたちもそれについて行きます。そして、雨季は狩猟や採集に適していないシーズンなので、子どもたちもみな定住集落に戻ってきて、学校の出席率も少し上がるといった具合です。


カトリックの学校としては、本来であれば一年中この学校を開いて、子どもたちを通わせたいと考えています。しかし、乾季に学校を開いてもだれも来ないので、しばらくお休みにし、雨季になったらまた再開しましょうといった現場での判断、妥協が図られていました。現地の文化に適していないから学校教育など廃止してしまえという極論もあり得るかもしれませんが、それも別の意味で一種の隔離政策になってしまう恐れがあります。また、子どもたち個人の自由や選択肢を奪うことにもなりかねません。


この地域では最近、外国資本の伐採会社などがやってきて、伐採地区にするからこのエリアの木を君たちは伐採してはならないと通知したり、あるいはその逆で、自然保護の国際NGOなどがやってきて、この一帯を自然保護区にするから狩猟をしてはならないと通知したり、といったことが起こっています。実際そこで暮らしている土地の人たちが反論する機会もほとんどないまま、生活の資源が奪われてしまうという状況も生まれています。


そういう状況を見ると、森の文化を営み続けるためにも、たとえばフランス語で反論できる力や、自分たちの権利を守るための識字能力が必要なのではないかと思うことがあります。また、最近は都市に出稼ぎに行く人たちも多いのですが、薄給でこき使われたりしないような算数の力など、そのあたりもある程度は必要なのではないかと私は思います。


そういう状況を考えますと、学校教育を全否定するのでも全肯定するのでもない、森の文化の中に適度に使いやすい形の制度として選択肢に加えていくことがあっていいのではないかという思いで、そのような記述をしました。


○質問 先生のおっしゃる「アフリカ子ども学」というのは「『アフリカ子ども』の学」なのでしょうか、「アフリカにおける『子ども学』」なのでしょうか。


アフリカに対する関心は、ヨーロッパからの視点でいうと、最初は博物学として、たとえばどんな木が生えていて、どんな人がいるかといった興味から始まり、次はアフリカに行くと私たちの過去が見られるというような、間違った考え方ですが、西洋的な上から目線がありました。その後、開発学といいますか、アフリカでは何が足らないかということを調べていって、要するに援助視点が強まっていきました。では、子ども学というのは何になるのでしょうか。哲学的な質問でもあり、答えにくいと思いますが、先生のお考えを聞かせてください。


○亀井 アフリカ子ども学という名前を思いついたときは、さして深くは考えず、「アフリカで子どもに出会った、その学」をやろう!という簡単なイメージで名前を提唱したと思います。英語の名称は「Studies on African Childhood」としていて、アフリカにおける子どもらしさの学ということでしょうか。ですから、ご質問に沿って、しいて名前に区切りを入れるならば、「『アフリカ子ども』学」の方かなと思っています。


もちろん子どもは毎年生まれ、育ってくるので、年々アフリカの子どもらしさというのも変化し続けていくと思いますが、とにかく通って本人たちに会い続けようというひとつのムーブメントのようなイメージを私は念頭に置いています。ですので、あらゆる分野から「アフリカの子どもに会い続けたい」という人たちの参入を歓迎したいと思っています。


○質問 先生がおっしゃる、アフリカの子どもたちのインパクトについて、もう少し語っていただけるとありがたいなと思います。


○亀井 ありがとうございます。私が非常にインパクトを受けるのは、アフリカの子どもたちが親も含めてあまり人を当てにせず、自分でさっさと道具を持ち出して、何かをつくって遊んでいる光景です。一人前のハンター、採集者、漁労者として出かけていく姿にかっこよさを感じます。


また、街の中で物売りをしてお小遣いを稼いでいる子ども、それを「児童労働」と呼ぶかどうかというのは議論に値しますけれども、その姿には、日本の学校に通っている子どもからは見ることのできない自立心のようなものを感じます。見方によれば、アフリカの社会や教育のシステムが十分に整っていないから、子どもが自分でやりくりして生きていくということにつながるのかもしれませんが、問題解決能力といいますか、自分の力で、たくましい生き方をしていると私は感じます。


○質問 私も1カ月間、バカのみなさんと暮らしましたが、子どもだけでなくおとなにも、遊び心があると感じました。何かに失敗しても、その後にみんなで踊ったりするなどです。そして、遊び心は適応力といいますか、柔軟性を生んでいるという部分もあるのかなと気づきました。


○亀井 狩猟採集社会においては、労働と遊びが厳密に分かれておらず、狩猟に出かけるときもワクワクしながら、半ば遊びのような雰囲気を伴っています。人間は昔はだれもが狩猟採集民であったのですから、今日の私たちにおいても遊び心をおさえられないのは、そのあたりにルーツがあるのかもしれません。


○質問 インターネットやテレビといったマスメディアは、世界中の子どもの共通項を広げていると思いますが、先生が出会われたアフリカの子どもたちとメディアとの出会いはどういう状況でしょうか。


○亀井 アフリカは本当に多様です。都市部の電化された環境で暮らしている人びとは、子どもも含めて携帯電話、スマートフォンなどを持つこともあれば、CNNやフランスの衛星放送のニュース番組やアニメなどを見ている人たちも多くいます。一方、電化されていない森の集落などでは、電池1個で聞ける小さなラジオを持っているおとなが村に1人いるかいないかといった状況です。つけっ放しにしているラジオの音楽番組などで、にぎやかなアフリカのミュージックが流れてくると踊ってみたりといった感じで、少しずつ外部の情報、文化が流入している面はありますが、大きくは変わっていないと思いますね。観察していて最もおもしろいのは、電化されていく都市に近い村むらで、文化の融合が進んでいる状況でしょうか。


○質問 遊びのコレクションに感激しました。遊びをゴール、目標で分けるとわりあいシンプルに分類できると思いますが、情報学的なアプローチで分類はされていないのでしょうか。


○亀井 私はそのあたりの分野に疎い面があります。また、遊びの研究者たちもそれぞれ自己流の分類をもっていて、共通のプラットフォームで遊びの分類体系を構築しようということは行われていません。もしかしたらそれを土台に、分野を超えた遊び研究ができるとおもしろいかもしれませんね。


○質問 情報技術は、いろいろなところをまたがせることができます。先生のコレクションをつかって、いろいろなことができるような気がします。


○亀井 では一度、分類をめぐる勉強会でもさせていただければありがたいです。


○安藤 まだまだご質問もあるかと思いますが、そろそろ時間が参りました。極めてインスパイアリングで、子ども学とは何かということまで問いかけられた非常に有意義なお話だったと思います。また、これからメンバーに加わってもらおうとアプローチしようと思っております。


今日は来ていただいて本当にありがとうございました。それから、みなさんもお集まりいただきましてどうもありがとうございました。これで4回目のカフェを終わります。


(拍手)



■講演者より:子ども学カフェ終了後のシンポジウム報告と謝辞

2014年9月27日-28日に白百合女子大学(東京都調布市)で開催された、日本子ども学会学術集会第11回子ども学会議「文化的・社会的存在としての子ども」において、亀井に加えて清水貴夫(総合地球環境学研究所)、山田肖子(名古屋大学)、竹ノ下祐二(中部学院大学)の4名の「アフリカ子ども学」メンバーによるシンポジウム「文化的・社会的環境で育つ子ども: アフリカ子ども学の試み」が行われ、多くの日本子ども学会会員と会議参加者の各位との有益な議論を行うことができた。


ガーナ出身で、当日はコメンテータとして参加したスィアウ・オンウォナ-アジマン准教授(東京農工大学)、企画立案から当日の開催までお世話になった宮下孝広第11回子ども学会議実行委員長(白百合女子大学)、シンポジウム提案者であり座長も務めてくださった安藤寿康理事(慶應義塾大学)ならびに学会、会議スタッフ各位、ご参加のみなさまに、この場をお借りしてお礼を申し上げたい。


なお、シンポジウムの様子は、以下の報告をご覧いただきたい。


亀井伸孝編. 2015.「第11回子ども学会議報告 シンポジウムB 文化的・社会的環境で育つ子ども: アフリカ子ども学の試み」『チャイルド・サイエンス』(日本子ども学会) 11: 53-58.


■関連ウェブサイト
アフリカ子ども学 Studies on African Childhood
http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/syamada/African%20Childhood.html

『森の小さな〈ハンター〉たち: 狩猟採集民の子どもの民族誌』
http://kamei.aacore.jp/kyoto-up2010-j.html

『アフリカNOW』90号 (特集:アフリカ子ども学の試み)
http://www.ajf.gr.jp/lang_ja/africa-now/2011.html#90

立命館大学生存学研究センター「アフリカの子ども」
http://www.arsvi.com/i/2-child.htm

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