第7回「経済学的子育て論」(3)
次に、子どもの教育とは何かということを考えてみたいと思います。先ほども言いましたように、教育というのはなかなか先が見えない、不確実性が高い活動なので、どうしても転ばぬ先の杖的になりがちです。要するに、今のうちにこのような準備をしておけば、将来、道を外さないだろう、将来困らないだろう、という感じです。しかし、それでも道を踏み外す人がいます。また、転ばぬ先の「杖」の使い方がわからない人がたくさんいると感じています。
私が教えている経済学なども、経済学という「杖」の使い方がなかなかわかってもらえない。なるべく具体的な話を学生にしますけれども、それでも使い方がわからなくて、結局、つまらなくなっちゃうんです。しかし、教育というのは自分が困ったときに、その杖を作り直したり、別の杖を手に入れたりするためにあると思うんです。
あるいは、道を外れても、またそこに戻れるように、教育というのは常に用意されていなければならない。しかし、日本の場合、なかなかそのような考え方を教育には求めていないようです。もちろん、制度的には社会人教育も通信制の教育もあるんですけれども、そういうものが日本で広まらないというのは、転ばぬ先の杖的な発想が強いからじゃないでしょうか。
この発想は、『障害者の経済学』という本を書いたときに考えたのですが、つまり福祉もそういう発想が日本では強い。事前にいろいろな制度を準備してあげるわけです。特別支援学校などはその典型です。障害者も法定雇用率が2%になりますから、企業も障害者を雇いたい。そこで特別支援学校を出た後、企業に就労する。レールから外れないやり方です。けれど、例えば20歳を過ぎてから精神障害を発症したとか、発達障害なのに親が無関心でほったらかしたまま20歳過ぎた人は福祉サービスを受けていないのでレールに乗っかっていない。そういう子どもへの対応が、日本はできていないんです。
今年の6月に高校野球の本を出版するのですが、その準備として高校野球の取材をしていた時に感じたことですが、高校野球って教育だと思いますか? 高野連は、高校野球は教育だとうたっています。なぜなら、教育だと言った途端に、教育の枠組みに入って守られるからです。例えば野球をやるには広い場所が必要で、周囲にはネットを張るなどすごくコストがかかるんですが、「教育」であれば正当化されます。一方、教育だと言った途端に、生徒たちの健康管理や授業日数の確保など守らなければいけないルールも出てくるのですが、高野連はそこをうまくクリアしていけるよう考えてきて、今のような仕組みができているわけです。
例えば、あの真夏の炎天下で野球をやっているのは、教育か、という話になるんですが、あれは教育というより文化ですね。秋の涼しい時期では、誰も注目してくれない。真夏に、汗と涙と泥で真っ黒になってやっているから、みんな「おお、頑張っているな」と喜ぶ。それが日本の文化なんです。そして、それも教育の一環だと言うことによって、炎天下の試合が正当化されているわけなんです。
高校野球では、優勝するのは全国4,000校ぐらいの中のたった1校だけ。つまり、残りの三千何百校は全部負けるんです。物は言いようで、負けることから人間は学ぶんだと。失敗することから人間は成長するんだと。レギュラーになれなくても練習や試合を見ているだけの自分も負けないで頑張ろうと思う、それが教育なんだと。そういう要素を維持しなきゃいけないということがあって、教育という看板を外せないんじゃないかなと僕は思っています。教育によっていろいろな批判をかわせるのです。
大学駅伝、あれも教育でしょうか。陸上部には大学の予算の一部がつぎ込まれています。大学のお金は、国公立はもとより私学でも私学助成金がついていますから、駅伝にも税金が使われているわけです。なぜそれが正当化されているかというと、教育という大義名分があるからです。でも、その成果が何なのかは見えにくいですね。日本はすごくマラソン大会が多いのですが、なぜあんなにみんな走っているのでしょう。何となく精神が鍛えられるみたいなのがいいのでしょうね。典型的なのは、夏にやっている24時間マラソン。どう考えても非健康的ですが、日本中の人が見て、必死になって走っている姿にみんなで感動する。走っている本人も、これだけ頑張ったんだということが後につながる。だから、投資的な発想ですね。本当に何につながるかなんてわからないんだけれども。
さて、次は『障害者の経済学』という本を書いたときに取材した特別支援学校――当時、養護学校だったんですけれども――の様子を写したビデオをご覧いただきたいんです。私、子どもが2人いるんですけれども、上の子どもが脳性麻痺の障害者で、もう30歳になっているんですが、その子どもが通っていた中学の特別支援学校の運動会の様子をビデオに撮ったものです。
(ビデオ再生)
運動会の最後に行われるリレーです。これはアンカーの生徒ですが、なぜ後ろ向きに走っているかというと、この生徒はある程度普通に歩けて、まともに歩くとすぐに一周しちゃうので後ろ向きに走らせているんです。横にいるのが先生です。
さて、この絵の中で1つ大変不自然なところがあるのですが、どこがおかしいか、おわかりになりますか?
○参加者 拍手している人の見ている方向。
そうですね。まず拍手を自分でしていないんです。拍手は先生がさせているんです。そして、今おっしゃったように、走っている人を見ていません。先生を見ているんです。
次のビデオは別のチームのアンカーですけれども、この子も普通に歩けるので手押し車にして競わせています。足を持っているのは先生ですね。ここで不自然なところはどこでしょう。これはもうわかりますね。先生にしてみたら、「早くしないと、おまえ負けるぞ」ということなのですが、この子は何で引っ張られているかがよくわからないので、そんなに引っ張るならもう前を向いて走っちゃえという話。
実は、僕も嬉しがってこのビデオを撮っていたんですけれども、『障害者の経済学』を書いてしばらくしてからこのビデオを見たら、何か変じゃないかと。肢体不自由児は体を動かすのが苦手な、その部分で障害をもっている子たちで、運動が不得意な子が多いんです。では、肢体不自由児の運動会は、何のためにやっている活動なのか。親や先生たちは喜んで笑ったりしているわけですが、当事者たちは、ずっと突っ伏している子もいれば、ほかの方向を見ている子もいる。そういう中でやっているわけです。これは何のためにやっている行事なんだろうか。不得意なことで競わせて、うまくいかないのを見て笑っている。
私はこの現場に、当時は親として参加していたので、先生たち、よく頑張っているなと思ったんですけれども、冷静に考えてみると、要するにあれは職員のための活動だった。それを教育ということで正当化している。つまり、障害をもっている子たちだって運動会をやりたいに違いない。体が不自由な子たちにも運動会を味わわせてあげたい。この論理はすごく強いので、周りが黙ってしまいますね。障害のある子たちが、運動会ができないのはかわいそうじゃないかと。
先生たちは、ものすごく前から準備して、いろいろな設備をつくっているんです。車椅子の子でも競技に参加できるように、押しボタンでボウリングのボールを転がせるようにしたりとか。だけど、子どもたちはほとんど寝た状態なので、先生が腕をつかんでボタンを押したりしてやっている。それだけのリソースを使う意義はどこにあるのかというと、それは「運動会を味わわせてあげたい」なんです。だったら、本当に子どもにとってプラスになるようなことにリソースを使ったほうがいいんじゃないかと思うようになりました。
もう1つ、お見せします。今、特別支援学校は何をミッションにしているかというと、就労支援なんです。東京の場合、永福(東京都立永福学園)は就労率96%。足立(東京都立足立特別支援学校)は100%です。となると、永福に入れば就職できる、将来も安泰だということで永福に入るための塾まであるようです。
親がホームページにアップしている資料を見ると、非常出口マークは何のためにあるのかという質問をしたとか、作文を書かせるので準備しなさいよとか、バスの中でどうして困るのかを書かせますよとか、計算問題などもありますよと。ほかに国語は接続詞とか、地図の行き方。最後に、面接のときの挨拶の仕方です。「元気で挨拶して他の生徒と差をつけましょう」と書いています。
なぜこうなるのかというと、これは多分、企業が求めているんです。要は、企業が特別支援学校の卒業生を採用するかしないかを決めるときに、まず挨拶をみるわけです。特例子会社などに見学に行くと、働いている子たちが、みんな作業をやめて立ち上がって「おはようございます」とか挨拶するんです。「障害者の子たちは大きな声で挨拶するから、働いていて気持ちいい」とか企業の方が言うんですよ。だったら、他のみんなも挨拶すりゃいいじゃないかと僕は思うわけですが、そんなことはしていないわけです。特例子会社の障害者だけが要求されるんです。
それから、雇うときには、一人で通えるというのが条件なんです。簡単な計算もできたほうがいい。要するに特別支援学校で何をやっているかというと、企業に入りそうな子を選抜して入学させているんです。だから、就職率が100%なのは当たり前。しかし、それが教育なんですかと僕は言いたい。
障害者の話を考えると、そこでいろいろ議論されていることは、全部一般の社会に共通します。ここを見れば、教育の問題点も全部わかるんじゃないか。障害児教育がうまくいっていないということは、一般の教育も多分うまくいっていない。だって、基本的に障害児教育は健常児教育のマネしているわけなので。教育とは何なのかと言われたときに、いろいろな学校を例に出して議論するけれども、まず特別支援学校を考えてみたらどうですかと。
今、日本の大学も、安倍政権がアベノミクスとか成長戦略とか言って、とにかく経済成長に貢献するような人材をどんどん大学は輩出しろみたいな話になっていて、それでいろいろ文系学部の再編とかいって問題になっていますが、それも結局、教育って何のためにあるのかということが迷走しているから。一番わかりやすいのは、富国強兵のための教育なのか?みたいな話。だけど、そんなのは障害児教育では何年も前から言っていることです。この子たちは何のために教育されているんだということなんです。
まとめです。
- 子どもは、社会資本である
- 子育て(教育)は、社会資本への投資であるが、当事者の多くはそれがわかっていない
- 子ども本人とその関係者(親・教育者など)に正しいインセンティブを与える
- 子育てが目指すところは、子どもの自立
僕は何か結論づけて、こうあるべきだなんて言うつもりは全くありません。教育も素人です。ただ、経済学的な発想から見ると、ここまで述べてきたようなおかしなところが見えてきます。そのおかしなところを教育の専門家の方たちはどう見ているのかなというのは非常に興味がありますし、また、経済学をやっている人間として、何か貢献できればいいかなと思ってもいます。
最後に、教育の基本はこれしかないなと思って、いつも引用するんですけれども、福沢諭吉の『学問のすゝめ』。これ、すばらしいことを言っています。
「西洋の諺に『愚民の上に苛き政府あり』とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり」
つまり、勉強しないで国民がバカのままだと、政府が好き勝手やるよ、と言っているのです。今こそ、この文章を我々は噛みしめるべきじゃないでしょうか。
ということで、終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。
≪拍手≫
≪質疑応答≫
○安藤 経済学の概念で、愛とは何かとか、本当の子どもの教育とは何かということを考えると、非常に切り口のいい論立てを与えてくれるという意味でも、いろいろな展開や発展性を感じることができました。子ども学に対しての寄与という点でも、その可能性を皆さん感じられたのではないかと思います。
本日はどうもありがとうございました。
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