第7回「経済学的子育て論」(2)

■「利己主義」的動機と「利他主義」的動機

もう1つの子育ての重要な要素は、利己主義と利他主義です。これは教育をどう思っているかということです。つまり、動機です。


一般的に、経済活動の動機は、お金です。Aという選択肢とBという選択肢があって、他の事情は一定だが、Bのほうが報酬が高いとなったら、必ず人はBを選ぶ。つまり、動機づけは金銭的なインセンティブによってなされます。動機は、コストが高いか低いか、あるいは報酬が多いか少ないかなのです。


 ところが、教育は報酬がほぼ一緒です。つまり、成果が見えにくいので、インセンティブがつけづらいのです。学校の先生にどういうインセンティブをつけますか。民間の企業なら、売り上げが上がれば高い報酬を出すと言って動機づけができますが、教育では難しい。テストの成績でインセンティブをつけたら、子どもたちにテストの正解を教えちゃうとか、テストでいい点を取れるようなことばかり教えちゃうとか、妙なことが起こりそうです。


では、教育の動機は何なのか。経済学では、利己主義的動機か利他主義的動機のどちらかだと考えます。まずは、自分のため、自分が快感を得るために教育しているという「利己主義」的動機です。他の人に何を言われようと自分の教育的信念に基づいて行動する場合がそれに当たります。一方、「利他主義」的動機は、相手に喜んでもらえることを一番の動機として考えます。例えば、授業が終わった後、「今日の授業、すごいよかった」と学生が言いに来てくれたり、おもしろいことを言ったときに、わっと笑ってくれたりすると、嬉しい。すると、またそう言ってもらえるように頑張るとか、今度はもっと笑いをとるぞ、と。そういうものがそれに当たります。


先生の場合はそういうことになりますが、親の場合も利己主義的動機が結構強いと思われます。つまり、子どもを育てたことによって何か見返りが得られる。


例えば、子どもがいい成績を取ってきたり、いい学校に進学したら嬉しいとか、人に「うちの子ども、あの大学に合格したのよ」と言ったら、「すごいわね」とか言われて嬉しかったとか......これらもすべて利己主義的動機です。慶應幼稚舎に子どもが行っているなんていうのはおそらく利己主義的動機でしょう。子どもが自分で選択しているわけではありませんから、すべて親の快感。だから100人ちょっとの定員のところに千何百人も押し寄せます。


もう一つ例をあげます。例えば、出生前診断は利己的、利他的、どちらでしょう。仮に、障害をもって生まれてくる可能性が高いということがわかったときに、この子が生まれたらきっと苦労するから、と考えて中絶するというのは、利他主義的と言えますか。


利他主義というのは、相手が喜ぶのを見て自分も嬉しくなる、相手が悲しんでいると自分も悲しい、というのが利他主義です。とすると、生まれてきたいかどうかを自分で判断できない胎児のことを考えて、というのは利他主義ではない。利己主義的動機でしかありません。なお、僕は善悪について言っているのでありません。分析しているだけです。

『母よ!殺すな』という本をご存じでしょうか。私が『障害者の経済学』という本を書いたときにいろいろサーベイしたときに見つけた本で、脳性麻痺の人たちが勉強会を開いたり、運動を起こしたりして、できたといわれています。日本では、障害をもつ子どもの母親が、自分が死んだ後の子どものことを悲観して親子心中するという事件がよく起きているんですが、子どもだけが死んで、親が生き残るケースが多いんです。それで、裁判になるのですが、大変な思いをして子どもと向き合って暮らして、苦労して、悩んだ末にやむなく子どもに手をかけてしまったお母さんの減刑嘆願運動みたいなものが起きたりする。それに対して「それは利他主義的なんですか」と問うている本なのです。子どもは親の死後のことなど考えていないのに、母親が勝手に思い詰めて殺している、だから、『母よ!殺すな』と。


それにも少し関連するのですが、私は「心配」というものも、利己主義的なものだと思っています。例えば、私のゼミでは中国に学生を研修に行かせているのですが、学生が興味を示していても、いざ行くとなると親が「危ないからやめておきなさい」「この時期に中国に一人で行くなんて心配、頼むからやめて」と反対する。そして母親から言われたからと言って、直前になってキャンセルする学生が結構いるんです。この心配って何だろうということなんです。

心配というのは、利己主義的動機を利他主義的に見せる魔術のような働きをする、というのが私の定義です。心配だと言われると、子どもは親に対して非常に悪いことをしているような印象をもつ。つまり、親は「あなたのことが心配なのよ」と言えば、子どもは思いとどまるだろうと思っているわけです。情報を与えて、なぜ自分が心配に思っているかというエビデンスを提示して、あとは子どもに判断させるということであれば、利他主義的と言えるかもしれませんが、単に「心配だ」でと言うだけでは利己主義ではないかと。


例えば、男性が夜景のきれいなレストランで食事しようということで女の子を誘います。そこで、「夜景がきれいで嬉しかった」「今日はおいしかった、ありがとう」と言ってもらえて、好かったと思うこと、これは利他主義です。けれど、男性が「自分はこんなイカした彼女を連れているんだぜ」と、自分がいい思いをしたいと考えていたとしたらこれは利己主義です。でも、周りから見ると、単に「あの2人は愛しあってるね」という印象です。だから、わかりにくいんです。


利己主義と利他主義の判定について、僕は学生たちに、自分が喜んでいるときに本当に相手が喜んでくれるかどうかをチェックしろと言っています。例えば、急用ができたと言っていきなりデートをキャンセルしてみろ、と。後日、その用事を優先して良かったと言った時に、相手がもし怒ったら、相手の愛は利己主義。相手が「よかったね。キャンセルされたのは嫌だったけど、あなたがそんなに喜んでいるならいいわ」と言ってくれたら利他主義。それをちゃんと確認しておかないと、結婚してから苦労するぞと(笑)。


そういうことは、子育てにもあると思います。よく子どもを怒鳴りつけている母親がいますが、利他主義、利己主義、どちらの動機なのかな、と。怒鳴ったことによって子どもが成長するともあまり思えないですし、暴言とか罵倒とか体罰とか、そういうものは大体、利己主義的なものが多いだろうという印象です。


では、子育ては何を目指すべきなのでしょう。僕は子どもの自立ではないかと思っています。企業なども同じですが、閉鎖的な組織は自己都合でいろいろなルールをつくり、自分たちがやっていることをだんだん正当化していきます。


そうならないようにするには、例えば企業でいうなら、常に市場経済を意識するということが重要になります。今、やっていることを、お客様は本当に喜ぶだろうか、という考え方です。例えば食品を作る機械の器具を掃除しなければいけない作業を「めんどくさい」と思って手抜きをすると、食中毒を起こしてしまいます。常に市場経済、お客さんを意識して、お客さんのために、お客さんがどう思うかということを考えながら行動するというのが企業にとっては一番大事なことなんです。今、三菱自動車の不正が問題になっていますが、これも大切なことを忘れていた結果、しっぺ返しが来ています。


子育ても同じで、家庭という閉鎖的な空間で「これが、うちの子育てなんだ」と正当化していけば、しつけのつもりだった行為もエスカレートしていきます。実際、ひどい虐待も起きています。子育てというのは、常に子どもが自立できるように、つまり子どもが社会に出ていったときに、ちゃんと社会の中で生きていける人間になるのかどうかということを考えていくこと、それがとても重要なんじゃないかなと思っています。


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