第7回「経済学的子育て論」(1)

講 師:中島隆信氏(慶應義塾大学商学部教授)
日 時:2016年4月23日(土)12:30~14:30
場 所:慶應義塾大学(三田キャンパス)西校舎1階、513番教室


○安藤 皆様、本日は第7回子ども学カフェにお越しいただきましてありがとうございます。子ども学カフェは広く子どもの問題に対して科学的アプローチをするということで、いろいろな方にお話をいただいてきましたが、今日は慶應義塾大学の中島隆信先生に、経済学からのアプローチで子どもを取り巻く環境を見るという大変おもしろい視点でお話しいただきます。

中島先生は内閣府など国の仕事にも関わっておられますが、『大相撲の経済学』とか『お寺の経済学』、『障害者の経済学』、『高校野球の経済学』といった身近なテーマを経済学的に分析しておられ、学生の人気も非常に高いと聞いております。前々からお願いをしていたのですが、今回やっと念願叶ってお越しいただきました。

それでは、中島先生、よろしくお願いいたします。


■はじめに

皆さん、こんにちは。中島です。今日は「経済学的子育て論」ということで、私なりのアプローチをしたいと考えております。

経済学といえば、多くの人たちは世の中のことをお金で解決するという発想が非常に強いと認識しているのではないかと思われます。実際、経済学の純粋の理論というのは、市場メカニズムを使って、世の中がこうすれば資源が最適に配分されるといった話をするのですが、世の中の大抵のことは、経済学が想定しているようにはうまくいきません。したがって、今日は私なりの、子育て論に対しての経済学的なアプローチを皆さんにご紹介できればと思います。


■子どもは、私的な「財」か、公的な「財」か

まず、子育てとは何かということですけれども、「財」ととらえてみると、私的な財なのか、公的な財なのかというところがあるかと思います。

かつて日本では「産めよ増やせよ」、子どもを増やすことが国の発展につながる要素であるということが言われましたし、義務教育も、子どもは公的なものだという発想が根底にあると思われます。

しかし、経済が豊かになってくると、子どもは社会のものというよりも、私的なものだという考え方が強くなってきます。さらに、家業が減り、父親が自宅から離れた会社で働くことが多くなった現代では、子どもには普段、父親がどこで何をして働いているかが見えない。つまり、仕事と生活の間に距離が生まれてきます。すると、子どもは自分の世界ができてきて、家族の個人化が進展していく。そして、個々の家庭が、それぞれに子育てをしていますから、社会に貢献しようといった意識もだんだん薄れてきます。

今、日本は少子化で出生率が1.4ぐらいになっています。現在の日本の総人口は1億2,000万人ほどですけれども、2060年には8,000万人ぐらいになって、2100年には6,000万ぐらいになります。「自分は子どもを産む気はないし、将来、子どもの世話になる気もない。自分の面倒を見てもらうにはお金がいるので、貯金はしている」「子どもを産むか産まないか、育てるか育てないかは自由でしょう」という風潮がさらに強くなっていけば国が成り立たなくなります。それを経済学では「合成の誤謬」と言います。

子どもを産む気はないし、面倒を見てもらおうとも思っていない、と考えるのは自由ですが、動けなくなったら必ず誰かの世話になるのです。つまり、自分の子どもがいなければ、他人の子どものお世話になるということになるわけです。これがフリーライダーです。すでに今、そのような状態になってきているのではないかなというのが僕の印象です。


■子育ては「消費」か、「投資」か

次は、子育ては「消費」なのか、「投資」なのかを考えてみましょう。

消費というのはその場限りで終わるものです。その場で快楽を得るものを、経済学では消費と呼んでいます。一方、投資というのは、そのときは我慢するけれども、将来必ず大きな見返りが来るものをいいます。つまり、将来の収益の期待です。では、子育て、教育は、どちらでしょう。

例えば病院に行くのは消費ですか、投資ですかと問われたら、この定義でいくと投資になるわけです。薬を飲んだり、手術をするのは、将来、健康を得られるために、今、我慢しているわけですね。

しかし、教育はどうでしょう。多分、大人や社会は、子育ては投資だと思っているでしょう。つまり、子育てや子どもの教育のために時間や資源を使っても、その見返りが将来やってくると考えている。ところが、今を犠牲にして、となると、行き過ぎが起きるわけです。

高圧的に、あるいは強権的に子どもに勉強させても、絶対、将来はプラスになるかというと、わからない。だけど、教育イコール投資だということになると、全部が正当化される可能性があるわけです。かつて体罰がよしと言われた時期がありましたが、言ってわからなかったら体で覚えさせる、痛いと思うことが、その子の将来のためになる、成長につながるといった理屈がありましたが、それは「投資」だからということで全部正当化されたわけです。

 さらに、この問題が難しいのは、子ども自身は投資という発想がないということです。おとなしく座って先生の話を聞くのと、外で遊ぶのと、どっちが楽しいかといったら、外で遊んだほうが楽しいわけで、外で遊ぶことを犠牲にして、なぜここで座っていなければならないのかといえば、「投資」だから。投資だとわかっている人は、座る。わかっていないから、多分、大学生は外で遊んでいるんでしょう(会場 笑)。

これが投資だということを理解していない。自分で金を払っていないというのもあるんですよ。親が払ってくれていて、自分自身が投資だと思っていないから、そういうことをやっているんでしょう。

しかし、幼い子どもには、どうやってわからせたらいいでしょう。これは投資なんだと言って説明しますか? 今、我慢すれば、将来、いいことがあるんだと。そんなのは子どもにはわからないと僕は思います。はっきり言って、子どもが教室でおとなしく40分とか50分とか座っていることは奇跡です。では、子どもたちを座らせるためにはどうしたらいいかというと、これは楽しくしなきゃダメなわけで、つまり消費的な要素が必要になるわけです。だから私も、教室でつまらない冗談などもあえて言うわけです。こいつらを楽しませないと、みんな出ていっちゃう。外よりももっとこの教室にいることが楽しいんだと思わせなきゃいけないので、日々、私は苦労しています(会場 笑)。

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