リレーエッセイ
第1回 私の子ども時代
榊原洋一(日本子ども学会理事長/お茶の水女子大学大学院教授)
自分の過去の思い出について、お酒の席などで面白おかしく話すことはあっても、決して文章にして人様の前に示すものではない、と日頃から考えていました。過去に一度だけ、子育て体験を本にして出版したことがありましたが、今となっては赤面の至りです。
とはいえ、子ども学会という子どもを真剣に考える会の代表として、自分の子ども時代のことを隠すわけにもいきません。決して恥ずかしいことばかりしてきたわけではありませんが、書いてみたいと思います。
最も古い記憶は、幼稚園に初めて出かけた日の記憶です。東京郊外の畑の真ん中にある二軒長屋の玄関から幼稚園に出かけたときのイメージがまだ思い浮かべられます。
幼稚園は、青葉幼稚園という名前の、キリスト教系の幼稚園でした。父が単身アメリカに行っていたので、遠足のときなど園長先生が父親役を買って出てくれた思い出があります。
私は母が弁当を作ってくれていましたが、弁当を持ってこられない子どもには、申し込むとパン屋さんがコッペパンを昼になると届けてくれました。種類はイチゴジャムかピーナッツバターの2種類のみでした。パンを入れた紙袋が紙飛行機を折るのに適しており、昼ご飯の後はコッペパン組の子どもは飛ばして遊ぶのが常でした。私はそれがうらやましくてたまりませんでした。やさしい顔の女の子が、そんな私の様子に気がつき、自分の紙袋を取っておいてくれるようになりました。なんともいえない独特の嬉しさを感じましたが、これが最初に異性を好きになった経験かもしれません。
私は生まれつき強い近視であったために、幼稚園の視覚的記憶があまりありません。クリスマスの幻燈会も、その字のごとくぼーっとしか見えていなかったのではないかと思います。小学1年生のときに、黒板の字が見えていないことに教師が気づき、眼鏡を掛けるようになりました。初めて眼鏡を掛けて世の中のくっきりした像を見たときの驚きはいまでも鮮明に覚えています。母が後日、大勢のいとこたちと外出したときに、バス停で遠方からやってきたバスにいとこたちが気づいて声を出しているのに、一人ぼーっとしている私を見て、医師であったおじが母に「ようちゃん(私の幼児期の呼称)は、少し知恵遅れがあるかもしれない」と言っていたと話していました。
「幼稚園時代に人生に必要なことはすべて学んだ」という本の著者とまったく異なり、ぼーっとした幼稚園時代を過ごした私でした。
私が3歳から5歳になるまで、父がニューヨークに単身赴任をしていたため、この時期、父と遊んだ記憶がほとんどありません。風呂は家の裏の広場に面した銭湯に母につれていってもらっていました。父の帰国後、父に連れていってもらったことがありますが、女風呂に慣れていた私にとって、男風呂は荒々しい雰囲気で怖かったことを覚えています。
ぼーっとした幼稚園時代でしたが、心のトラウマとして現在にまで残る苦い思い出があります。幼稚園からの帰り道、道の真ん中に10円玉が落ちていたのです。母親から、お金を拾ったらおまわりさんに届けるように言われていましたが、近所に駐在所は無く、拾ってそのまま家に向かいました。家の前には食品や雑貨を売る「たかのさん」という店がありました。その前を通った時に、1個5円のガムが目に入り、手に握り締めていた10円玉を使ってしまったのです。母にとがめられたときに、口の中のガムが苦く変わったことを覚えています。お天道様の下で、恥ずかしいことをしてしまった、という悔恨の念は今でも残っています。
このように本当にぱっとしない幼稚園時代でしたが、戦争が終わって10年近くが経過した子どもの私を取り巻く社会には、平和で温かな雰囲気が満ちていたと思います。
榊原洋一(さかきはら・よういち)
1951年、東京生まれ。1976年東京大学医学部卒。東京大学小児科講師を経て、お茶の水女子大学人間発達創成科学研究科大学院教授。日本子ども学会理事長。専門は小児神経学、発達神経学特に注意欠陥多動性障害、アスペルガー症候群などの発達障害の臨床と脳科学。2013年よりチャイルド・リサーチ・ネット所長。著書に『オムツをしたサル』(講談社)、『集中できない子どもたち』(小学館)、『多動性障害児』(講談社+α新書)、『アスペルガー症候群と学習障害』(講談社+α新書)、『ADHDの医学』(学研)、『はじめての育児百科』(小学館)、『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』(講談社+α新書)などがある。