子ども学リレーリレーエッセイ
第2回 子どもの発達と文化をめぐって
宮下孝広(白百合女子大学教授)
ずいぶん前の話ですが、学生時代に恩師の東洋先生から、アメリカの心理学の知見はそのほとんどが大学関係者、なかでも学生と研究室のセクレタリーの女性たちを被験者として得られたものだという趣旨のことを伺いました。おそらく読書会か研究会の後の飲み会の席でのことで、戦後の混乱期にフルブライトの留学生としてご苦労なさった思い出話として聞かせていただいたものと思います。その頃の心理学は、知覚・認知や学習の領域における実験的な研究が主流だったと思いますので、誰に被験者になってもらってもそんなに問題は生じなかったということなのでしょう。
しかし、教育や発達といった問題を考察していくうえでは、どのような対象を研究しているのか、対象者が背景に持っている文化や社会、あるいは生活のありようは何かについて認識することが重要です。別の機会に東先生から、1970年代に行われた「日米母子研究」(東洋・柏木惠子・R. D. ヘス(1981)『母親の態度・行動と子どもの知的発達』東京大学出版会)で経験なさったこととして、母子相互作用の研究の一部として設定された自由遊び場面に臨んだ際に、地方の農家の母親たちが、普段農作業に追われて、子どもと二人きりで遊ぶ時間を持ったことがないという言葉に初めて出会って驚いたというお話をお聞きしました。「いつものように自由に遊んでください」と言われて、どうしていいか戸惑っていた姿が印象に焼き付いたそうです。日本の研究グループのメンバーの多くが東京で育った方たちであり、そこでは、一家の主婦が家事育児を切り盛りする家庭が普通だっただろうと思われます。もちろん多様な家庭のあり方についての深い理解はお持ちだったことでしょうが、改めて実態を強く認識されたということなのでしょう。
私自身も農村の出で、ただ我が家は祖父母の時代から小学校の教師の家で、母親は結婚と同時に学校を退職して専業主婦をしていましたので、農家の生活の実態については、身近なこととはいえ、先生と同じようにしっかり理解できてはいなかったと思います。この話を聞いて、そう言えば農家をしている友達の家に遊びに行っても、年老いたおじいちゃんやおばあちゃんがいるばかりで、家事をしている母親の姿を見ることはほとんどなかったなあと、改めて思いもしたものです。生まれ育った生活体験を通じて染みついた感覚、意識や行動は、それだけ我々を方向づけているのだと思いますし、一方で、そのことについての認識は何かきっかけがないと持ちにくいものなのだと思います。文化や社会の問題はそれだけ根深いものと言えるかもしれません。
発達心理学は、子ども個々に備わる普遍的な能力とその生涯における発達的変化に関する研究から、対人的・社会的環境や文化的・歴史的環境との相互作用に関心を広げ、多くの隣接領域の研究の知見を視野に入れてきました。自分自身の関心の広がりもそのような流れに影響を受けていると感じますが、そのきっかけの一つには、恩師の何げない話と、自分自身の体験があったのかなと、今振り返って思います。
9月末に白百合女子大学で開催されます第11回子ども学会議では、「文化的・社会的存在としての子ども」というテーマで、社会で生きるための子どもに備わった普遍的な能力、文化的・社会的環境で生きる子どもたちが受ける方向づけとそこで生じる問題、そして文化を受け継ぎ、新たに創り出す子どもの役割などについて考えてみたいと思っております。
宮下孝広(みやした・たかひろ〉
1956年生まれ。白百合女子大学文学部教授、児童文化学科長・発達心理学専攻主任。日本子ども学会常任理事・編集委員長。調布市社会教育委員。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退、東京大学教育学部助手、白百合女子大学文学部専任講師・助教授を経て現在に至る。専門は発達心理学、教育方法学。小学校での授業研究の傍ら、PTA活動・地域活動にも参加。著書に『新版発達心理学への招待』(共著、ミネルヴァ書房)、『教育の方法と技術第2版』(共著、学文社)などがある。
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