子どもが「謙遜」を理解するには

戻るチャイルド・サイエンス懸賞エッセイ<2006年度 受賞者>

 

針多暁子(奈良女子大学人間文化研究科博士前期課程)

はじめに

 「ちょっとしか勉強してへんで」-小学校も高学年になると、子どもたちの中にこのような発言をする子は少なくない。この「ちょっと」とは、事実なのだろうか、それとも「謙遜」という意味で、事実ではないのだろうか。私たちは発達するにしたがって、「謙遜」という表現を理解していく。しかし、「謙遜」の理解には、実は複雑な構造が内在しているのである。


「謙遜」ってどういうこと?

 「謙遜」とは、「自分の能力・価値などを低く評価すること。控え目に振る舞うこと(大辞林)」と辞書にはある。私たちは、対人的な場において自らの評価を実際よりも低く表現することで、何らかのメリットを得ることを経験的に学んでいく。先に過小評価したほうが後からの評価が却って良くなる、上司には謙っておくと円滑に事が進みやすい、など。そうしていくうちに、特に日本のように控えめに振舞うことを美徳とする文化の中では、メリットを抜きにしても、「謙遜」という表現が自然と身につき、場に応じて使うことができるようになる。
 ところが厄介なのは、この「謙遜」という表現は美徳であれどうであれ、「事実とは異なる」のである。では、私たちはどうしてこの「謙遜」という表現を理解できるようになるのか。


「謙遜」の理解が難しい子

  筆者がこのような疑問を抱いたのは、あるアスペルガー症候群の子どもA君とのやりとりがきっかけである。アスペルガー症候群というと、知的には問題がないが自閉症スペクトラムに含まれ、社会性やコミュニケーションに障害を持つとされている。中核が何であるのかは未だ明らかとなっておらず、昨今の研究において、言語コミュニケーションにおいては語用論の問題、社会性においては他者視点の取りづらさやメタ認知の問題がクローズアップされている。
 A君は当時小学校6年生で、会話内容はかなり大人とも対等にやっていけるほどしっかりしていた。にもかかわらず、以下のような会話が母親との間で交わされた。
 A君の学校にいるO先生について、担任のI先生が「ちょっと音楽をやっていたことがある」と教えてくれたそうだが、そのO先生が某オーケストラで参加するという話題になったときのことである。

母:「でも、そんなオーケストラで演奏するくらいやから、かなりできるんじゃないの?」
A:「いやいや、小学校に来てから再び音楽に目覚めて、一年で腕上げたんじゃないの?」
母:「えー、そんなことないやろ。結構やっててんて。」
A:「でも、I先生は『ちょこっと』って言っててんで、じゃあ先生、俺に嘘ついたん!?」

 A君は「ちょこっと」にこだわって風変わりな解釈をしており、その表現を「控えめに言った」とは捉えずに「嘘」だと考えてしまう。普通の幼い子ども、いや、大人になった私たちもしばしばこのような誤解をしてしまうことはあるけれども、小学校高学年という年代で、それをすんなりと流せないA君と出会って、改めて違和感として浮かび上がってきたときに、「ああ、私たちが『謙遜』するってどういうことなのだろう」という問いに直面化させられる。なぜ彼は「謙遜」が理解できなかったのか、いや逆に、私たちが「謙遜」を理解するためには、何が必要となるのだろうか。


語用論の問題―関連性理論

  「謙遜」の理解は語用論と密接に結びついている。Sperber&Wilson(1986)は、私たちの日常的なコミュニケーションの構造について、「関連性理論」を打ち出した。関連性理論は、コミュニケーションの本質的要件は言語の「記号」および「意味」の送受信ではなく、話し手の「意図」を推察する能力であり、私たちの日常的なコミュニケーションは「意図-推察的コミュニケーション」であるとした。この理論の大きな功績は、これまでの言語学においてメジャーであった記号論から抜け出し、私たちが日常的に用いる語用論に焦点を当てたことである。
 語用論とは、意味論や統語論といった純粋な記号的言語ではなくむしろ、文脈や慣習などの対人的なやりとりを基盤とする。言語コミュニケーションでは、同じ言葉でも意図が違えば意味が変化する。例えば、反語や隠喩、皮肉といった発話は、その伝達内容が言葉どおりのものではなく、相手の意図を推論することによって、裏に隠れたメッセージを読み取らねばならない。
 発言の命題形式から引き出される話し手の意図の推察にはレベルがあり、事実に関する情報(=叙述)は理解できても、意図的・暗示的情報(=解釈)の理解は、より高度なメタ表象能力が必要となる。「叙述」は、話し手の意図を解釈しなくても、字義通りその内容を受け取れば首尾よく話が進むのだが、「解釈」が必要な場合は、話し手の意図を推察する能力(メタ表象能力)なくしてコミュニケーションが成り立たない。特にアイロニー表現のように、発話の命題形式と話し手の意図にギャップがあればあるほど、意図の推察や理解は難しくなる。
 意図の推察のためには、自分と相手とが、「何を環境として共有しているか」とか、「どのような文脈を共通の情報として認識しているのか」を手がかりとしなければならない。自閉症児は他者との共同注意が難しいとされており、そもそも何が共有されている情報なのかが検知できないか、あるいは共有される情報とコミュニケーションにおいて交わされる言語情報との統合が難しいがゆえに、彼らの語用論レベルのコミュニケーションの問題が浮き彫りになってくるという考え方もある。
 近年の自閉症のコミュニケーション研究において、自閉症者は表面的意味とは真意の異なる発言の理解に欠け、言葉を字義通りに解釈することが報告されている(happe、1994)。「謙遜」もアイロニーと同様に、話し手の発話内容と意図の間にズレがあることはおわかりいただけるだろう。A君が「謙遜」を理解できなかったのは、関連性理論に示されるような構造が彼にまだ備わっていなかったからかもしれない。


自己意識の問題―他者の目に写る自己

 「謙遜」の表現にはもう一つ重要な要素がある。それは、「謙遜」をする際に私たちは「他者に自分がどう見られているのか」という社会的な自己を意識しているということである。
金沢(1999)は、コミュニケーションの構造をDennetの階層構造と関連性理論のモデルとを重ねあわせて考えた(おもしろいことに、二つの構造はメタ表象のレベルで一致している)。金沢はさらに、「他者の心的表象の理解」というレベルから一歩踏み込み、自分自身が「他者の目」を通して自分の心の中に登場することを重要視している。
 私たちの心の中には他者の目がついて回り、さらにそれを意識する自己が主体となるという構図があってこそ、社会的自己が形成される。自閉症者の社会性の問題は、他者の認識世界をメタ的に思考することの難しさだけでなく、その構図に他者と自己を関わりあいを持たせ、組み込んでいく力の弱さも関係しているのではないだろうか。
 私たちが恥ずかしがったり、緊張したり、あるいは自己誇示、社会的ふりや偽装といった演技的行動をするのも、他者の目に写る自己を意識するためである。「謙遜」は、他者の目に写った自己を意識した上で自己を演技的に表現する、すなわち真の自己を隠したり、演じたり、欺いたりする行動である。語用論レベルの言語において発話内容と意図のズレが大きいほど理解が難しいのと同様に、A君にとって自己表現の演技性が高まれば高まるほど、その理解が難しいと思われる。


おわりに

 このように、子どもが「謙遜」を理解するようになるには、コミュニケーション構造の発達と自己意識の発達が複雑に絡む必要がある。逆に、A君のエピソードに見られるように、それらの発達に遅れや困難のある子にとっては「謙遜」のような表現の理解もまた難しいといえる。
 滝川(2005)は、『ガリヴァ旅行記』から次の文章を引用している:
「これは、きわめて高い理性を備えたフウヌイムが「嘘」という概念を理解できなかったときの台詞である:『...すなわち言語の用というのは、互いに意志を通じ、事実に関する知識を得ることである。それが、もしありもしないことを言うとすれば、こうした目的は全然駄目になる』」
 確かにそう言われると、私たちが生きている世界というのは実に矛盾だらけで、それなのに私たちはどういうわけか大半がその矛盾とうまく付き合い生活を送っている。私たちは生まれながらにして人々との関わりの中に存在し、絶えず様々なコミュニケーションに遭遇しながら、言葉なり社会性なりを獲得し、いつの間にかこの世界になじんでしまっている。だからもはや、コミュニケーション能力や社会性スキルが未熟だった頃のことは想起できないけれど、「謙遜」なんてあたかも宇宙人の文化のような時期だってあったのだ。私たちが多様な表現を用いてコミュニケーションができるのは、共同注意の力や、高次のメタ表象能力、他者の目を通しての自己意識といった、様々な力が生きていく中で育ってこそである。
 色々な子どもたち、様々な人々と出会っていくことで、私たちが当たり前だと思っていることを「本当に当たり前なの?」と考えてみよう。そして、私たちが「生きている姿」というのがいかに不思議であるか、いかに興味深い現象に包まれているのかという発見を、もっとしていこう。そうすれば、私たちの生きる世界が、どれほど好奇心を注ぐに値すべきものに満ち溢れているかに気づくことができるのだ。

文献
, F. 1994, Autism:an introduction to psychological theory, UCL press
金沢創 1999 他者の心は存在するか 金子書房
Sperber, D. & Wilson, D. 1986, Relevance: communication and cognition, Harvard University Press 内田聖二・他(訳)1993『関連性理論-伝達と認知-』研究社出版
滝川一廣 2005 ブックガイド・見過ごされてきたもの『ガリヴァ旅行記』 そだちの科学5 日本評論社

 

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