子どもの不思議 ~「甘やかす」とは何か~

戻るチャイルド・サイエンス懸賞エッセイ<2005年度 受賞者>

 

岩佐淳子(主婦・双葉会シカゴ日本語補習校講師)

はじめに

 わたしは、アメリカにやってきて、大学院で教育学を勉強しそのままこちらで結婚、出産した。育児は、日本の育児百科、アメリカ人の義母のアドバイス、そして己の専門知識を駆使して日々、試行錯誤の毎日である。特に、アメリカ育ちの夫と日本育ちのわたしには、物事の尺度の違いが育児にも現れる。そのなかでも、最も考えさせられたのが、どこまでが愛情で、どこからが「甘やかし」なのかということだ。アメリカでは、赤ちゃんを大人扱いして、独立心を育てようという風潮があるようだ。抱っこしすぎると、マザコンになってしまうのだろうか。独立心を育てるために、泣いても、放っておくべきなのだろうか。そんなことはないと、甘やかし賛成の旗揚げをしてみたものの、そんなわたしでも、義母に「甘やかさないでください」と頼むこともあるのだ。本当の意味で甘やかすというのは、どういうことなのだろうか。その子の将来に、今「甘やかす」ことが、どんな影響を与えるのだろうか。そう考えると、愛情で包むことと「甘やかし」の違いがみえてきた。


抱きしめてあげよう。

 わたしが「甘やかし」賛成派だったのは、子どもには「帰ってくる場所」や「安全地帯」が必要だからと信じているからだ。そんな場所(ここでは人だが)があるからこそ、子どもはいろんな冒険ができるのだ。いろんなことに挑戦して、失敗して周囲が自分を大切にしてくれている、愛されていると思うから、自己肯定感を持つことができるのだ。たとえ、叱らなければならないとしても、「だめなことはだめ」といった後には、子どもが処理できずにいる悔しい感情や、悲しい感情を抱きしめて受け止めてやる必要がある。
 子どもが、1人遊びを始めて、はっと気がつくと、親が視界にいない。急に怖くなって、見つけ出した親に抱っこをせがみ、べったりくっついてくるなんてことはよくある場面だ。そんなときに、「1人で遊ぶことを覚えなさい」「忙しいから」などと言って一人ぼっちにさせては、逆効果だ。いつでも、戻って、抱きしめてもらえる場所があるから少しずつ長い時間、少しずつ遠くでひとりで遊べるようになるのだ。叱って、泣いた子どもを罰として放っておくことに、教育的意義はどこにも無い。しかられたことが、十分な罰なのだから。
 もちろんこういったことは、いろんな育児書にも書かれていることだが、「そうは言っても、実行が難しい」というのが本音なのだ。頭ではわかっていても、日々のこまごまとした生活に、とかく忘れてしまいがちだ。そんなとき、"なぜなのか"を知っていれば、いつでも原点に戻ってこられる。
 エリック・エリクソンは18ヶ月までに、他への信と不信を経験する際、信をより多く経験することで、将来、他者や自分自身を信頼することができるようになるといっている。言い換えれば、逆境に陥ったときに、それに打ち勝つ自信と忍耐を持つ基礎を手に入れるのである。冒険をしにいっても、いつも帰るところがあり、自分は愛されていると実感することができる赤ちゃんは、自己肯定感を持ち、 「生きる力 」の礎を手に入れることができるのである。


「生きる力」と愛情

 「生きる力」といったが、文部科学省が、唱える「生きる力」というのは、あまりにも一般的な言葉であるため漠然としたイメージでしかない。事実、研究者によってその捉え方は、微妙に違ってきている(高橋、2001)。わたしが「生きる力」の重要な力としてあげるなら、それは、問題解決力、ひいては批判的思考だ。自ら、問題を見つけ、情報を集め、仮説を立て、検証、その結果を評価、そしてそのすべての過程の評価を行う一連の思考の過程だ(デューイ、1910/1997)。思考は、ピアノと同じで、考え方を学び、練習しなければうまくはならない、後天的な能力である(ポール&エルダー、1999)。
 それと、愛情がどう関係があるのか、と思われるだろうか。わたしは、とても大きな関係があると信じている。赤ちゃんが、愛され、受け入れられていると感じ、自己肯定感を持って育つと、逆境に打ち勝つ自信と、忍耐を得ることができる。自信は、問題への興味の第一歩となる「自分にはできる、問題を解決してみたい」という、問題解決の原動力となる。忍耐は、試行錯誤を繰り返し、悩み考えるものにとって必要不可欠なものである。
 自ら考える力というのは、民主主義社会において、わたしたちの生活を守る大切な力なのだ(ポール、1995)。一人一人が、体制やマスコミの意見に頼らず、問題の本質を見据えて、考え、社会を導いていかなければならない。そして、その力は生れ落ちたそのとき、周囲から与えられる愛情から始まっている。わたしが、賛成していた「甘やかし」は、 「甘やかし 」ではなく、必要不可欠な愛情だったのだ。


愛情の勘違い -Spoiled Child-腐ったこども?

 では、どこからが「甘やかし」になるのだろうか。英語で、子どもを甘やかすというときに、「甘やかして、だめにしてしまう」という意で、spoil(腐敗する)という単語を使う。子どもを腐らせてしまう愛情は、どんなものなのだろうか。
 先に述べた、問題解決能力を学び練習することを、阻害する愛情を「甘やかし」とするなら、それは、子どもから試行錯誤の場を奪ってしまうような愛情だろう。たとえば、子どもがブロック遊びをしていたとしよう。初めは、なかなかブロックとブロックを合体させられないものである。そんなとき、いらいらして、子どもが叫びだす。すると、ついつい、手が出てしまう。わたしの娘はそうすると、次のブロックをわたしに渡して、積み重ねていくようにうながす。「しまった」と思っても、もう彼女のなかには、これはとうてい、自分にはできないのだから、自分はブロックを渡す役になろうというあきらめが生じる。わたしが、物事に取り組む忍耐力を学ぶ場を奪ってしまったのだ。それからは、「自分でやってごらん」とうながし、どうしてもできなくて泣く娘を抱きしめてあげる、あと少しというところでどうしても行き詰っているときは、ばれないようにそっと手を貸して、できたことを一緒に喜ぶようにした。ここでは、泣いた子どもをかわいそうだと思って、手を貸すよりも、何度も挑戦すれば自分でできるようになるということを教えることこそが、愛情だったのだ。まさに、「かわいい子には旅させよ」の精神である。
 もちろん、ヴィゴツキーの言うように、子どもは大人をモデルとして観察し、そのまねをすることによって新しい技術を習得する(グラスマン、2001)。ただ積み木を与えても、積み重ねて遊ぶようなことはしないのだ。一切手を貸すなということではないが、子どもが興味を持って遊び始めたら、見守っていくことが大切なのだと思う。そうすることで、5分間の集中力が、1分、また1分と伸びていくだろう。
 愛情だと思って、身の回りのことや遊びの中までも大人が手助けをし、挑戦する場を取り上げてしまうことが、子どもを腐らせる 「甘やかし 」だったのだ。子どもたちは、新しい技術を得るため、新しい知識 ・経験を得るために、鋭い視線で、わたしたち大人を監察している。彼らが、「まねてみよう」・「自分でやってみよう」と思ったら、危なっかしくても、歯がゆくても、自分の手を押さえつけて危険の無い限り冒険させる。わたしたちの忍耐が試されるときだ。


すべての教育は、赤ちゃんからはじまる

 それでは、転ばぬ先の杖で、なんでもお膳立てされて、失敗を知ることなく子ども時代を過ごしたらどうなるだろう。自分で努力することに意味を見出さない大人になってしまう。教師をしていて、教え子からこんなことを言われたことがある。
「いいから、先生、答え知ってるんでしょ、教えてよ」
「先生でしょ、何で答え教えてくれないの、それが仕事でしょ」
そんなときいつも、わたしはこういう。
「あなたたちの仕事は、学校で考えて学習することでしょう。先生の仕事は、その環境を作って、手助けをすることなんだから、先生に君たちの考えを教えてくれないと、助けることもできないよ」
そんなやり取りをして、1年たてば、
「先生、っということは、もしこんな状況だったらどうなるだろう?どうしたらわかる?」
「なるほど、こうやって調べてみようか、それともこうしてみようか、どう思う?」
という会話ができるようになっている。
 このようなやり取りは、赤ちゃんと親の間にもいろんな場面で見られるだろう。その頃から、努力し葛藤すること、自分でやり遂げること、そして、それを喜ぶことを経験してきた子どもなら、学校といういろんな知識を手に入れることのできる場所で大きく伸びていくだろう。
 早期教育は、小さい子にABCを教えることではない。小さい子に、学習者としての態度、忍耐、喜びを経験させることなのだと思う。特別なことなんてしなくていい。日々、愛情で包みながら、甘やかさずに見守ることなのだ。


おわりに

 こうして、わたしは「甘やかし」賛成派から、反対派に転じた。といっても、私自身が変わったのではない。同じ愛情でも、子どもを腐らせてしまう愛情もあるのだと気づいたのだ。心を鬼にして、見守り、負けて帰ってきたら、抱きしめてあげる。そうして、子どもがもう一度挑戦する気になったら、再び自分の手を縛ってでも、見守ることに徹する。言うは易し、行なうは難しとは、まさにこのことだ。しかし、そうするとことで、わが子が 「生きる力 」をつけ、民主主義社会に住む市民の義務を果たし、どんなところでも生き抜いてくれるならそうしよう。

参考文献
Dewey, J. (1910/1997) How we think. Dover Publication.Toronto
Glassman, M. (2001) Dewey and Vigotsky: Society, Experience, and Inquiry in Educational Practice. Educational Researcher, vol. 30, no 4 p3-14
Paul,R.W. (1985). Bloom's taxonomy and critical thinking instruction. Enducational Leadership, May. 36-39
Paul,R.&Elder L.(1999). Critical thinking: teaching students to seek the logic of things, part?UJournal of Development Education,23.(2),34-35
Takahashi,M.子供の調和的発達としての「生きる力」.現代科学教育、44(1)通号532.5-7.

 

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