子どもといじめ:共感する心を育てる
高橋 真弓(翻訳業)
要旨
このエッセーでは現代日本の子どもたちが置かれている環境を考慮した上で、「共感する心」の育成に焦点をあてていじめの改善を提案している。いじめが陰湿で残酷になった背景には情報・消費社会での対話不足、学校の意義の喪失、大人社会の変容が挙げられる。
いじめ問題はもはや学校、家庭だけの問題ではない。社会全体の問題である。事実、共感する心を育てるはずの大人が対話の重要性をわかっていないのだ。子どもは大人の背中を見ている。子どもは他者が向き合ってくれなければ、他者と向き合う事を学ばない。感情をコントロールする術を教わらなければ平気で物や人を傷つける。
変わるのはまず大人から。子どもだけではなく自分の周りの人々に目を向け、声をかけよう。「その人を理解したい」それだけで思いやりと優しさが生まれるのである。
はじめに
子どもが集団生活を行う上でいじめは常に付きまとう。どの大人に聞いても子ども時代のいじめで加害者、被害者になった記憶が多少なりともある。では今のいじめとは昔と何が違うのであろうか。一つは子ども達に他者の悩み、苦しみ、痛みを「共感する心」が育っていないため、陰湿かつ執拗ないじめが繰り返される。また、いじめられる子が出す「サイン」に大人達が気づけないことで、追い詰められた子どもが死をも選択してしまう事実がある。
いじめ問題が毎日のように報道されているが、大人たちは責任を擦り合い、事実の隠蔽ばかりで肝心のいじめへの対処法が議論される事は少ない。どう子どもたちを保護し、個の成長と共に他を思いやる心を育む環境を創っていけるかを考える上で家庭、学校、地域の大人達がまず一体となって改善に取り組むべきではないだろうか。このエッセーではアメリカ、イギリスでの学校教育の実態をもとに、「共感する心」の育成に焦点を当てていじめ問題の改善を提案していきたい。
子どもを理解するということ
誰もが「子ども時代」を通過するが、大人になるとそれを美化しがちだ。事実、幼子の笑顔を見れば誰もが「無垢で、純粋な子ども」をイメージする。確かに彼らは無限の可能性を持っている。スポンジのように何でも吸収する柔らかい脳、一日中走り回る凄まじい運動エネルギー。しかし、大人たちは彼らの「無垢で純粋」故の暴力性を忘れてはいないだろうか。
高く組み立てたレゴをいきなり倒す。ケンカをして友達を力任せに押す。時には小動物にいたずらする、いわば大人にしてみれば「残酷な」ことだってやってのける。
『"子ども"というリアル』の著者、野上(1998)は子どもが暴力や悪行を通して「イノセンス」を解体しながら大人になることを定義している。つまり、彼らの暴力性は内在的なものであり、それをうまく開放する機会や社会の受け皿を大人が用意しないと、子どもの蓄積された欲求は他者への攻撃に転じ、それがいじめへと転嫁すると述べている。
子どもの暴力性は脳科学の面から見ても明らかだ。人間特有とも言われる大脳新皮質の発達が感情のコントロール、共感する能力を担っているわけだが、これは主に学習する脳であって遺伝的にこの能力はプログラムされていない(1996,山本)。暴力性をうまく発散させ、また感情をコントロールする「人間的社会性」は他者との相互的関わり合いを通して学習する以外では身につかないのである。そのためにはまず大人が子どもと向き合う環境を創り出すことが先決であろう。
情報・消費社会と人間関係の希薄化
どの先進国の子ども達も日本と同様、大量の情報と溢れるばかりの物に囲まれて生活している。家族の団欒をもたらしたテレビが子ども部屋にあるのは当たり前となり、今やパソコンも子どものおもちゃである。携帯電話に関しては大人より子どもの方が詳しく、新しい機能をどんどん取り入れている。もはや子どもは格好の企業戦略対象である。
しかし、これらの機器の登場が子ども達のコミュニケーション形態を変えたという事実は否めない。母親が授乳中、散歩中に携帯メールに熱中して子どもに話しかけないないなどの問題も実際挙げられている。子ども達も早ければ小学校から携帯電話をコミュニケーションツールとして使用し、家では自室でネットやゲームに興じる。彼らは空間を越えた人間関係に慣れてしまい、面と向き合って人と話をするのを苦手とし、傷つきやすく、傷つけやすい。家の中でさえメールをしあう家族さえいると聞く。会話のキャッチボールができず、他者とぶつかり合うことを避ける子ども達が果たして学校という集団環境の中でやっていけるかは疑問である。
対話の架け橋
欧米2カ国での留学中、幼稚園と小学校で実習を行ったが、その時すぐに目に付いたのは距離をおいて見守る大人達の存在だ。指導・監視目的ではなく、かといって子どもと一緒に遊ぶためでもない。しかし、周りにいる子に声をかけ、問題があれば近寄って話を聞き手助けをする。授業を消化するだけで精一杯という日本の教育現場とは違い、大人達は子どもと向き合う心の余裕と子どもを包み込む温かさがあるように感じた。
アメリカの幼稚園では4-5人に1人の割合で大人が付いている。安全性の配慮からという理由もあるだろうが、何よりも一人一人の子どもに目が行き届く。つい感情的になって暴言を吐く、暴力を行使してしまう子に大人は子どもの目線に立って、言葉で説明し納得させる余裕があるのだ。例えば下記のような光景はよく見かけた。
子ども:You, stupid!! Give me the toy!(このバカ!おもちゃ、貸せよ!)
先生:Do you think it is a nice way to ask your friend?(友達にそういう頼み方していいのかしら?)
子ども:No...But I was using that first!(でも僕が最初に使っていたんだよ)
先生:How do you think you can use the toy together?(どうやったらそのおもちゃを一緒に使えると思う?)
子ども:Um...I can ask if I can play with him.(うーん、一緒に遊んでいいか聞けばいい)
このような大人が仲介する対話は毎日行われていた。子どもの言動や行動を頭ごなしに否定するのではなく、まず自分のしたことをどう思うか、相手はどう感じるか、問題をどう解決できるかを考えさせるのだ。
上記のような会話はまず大人に身体的、精神的余裕がないとできない。話している最中に周りで喚いている子、「せんせー!」と助けを求めている子がいるような環境では、1人の子どもの考えを聞いてなどいられない。つい遠くから「~したら駄目よ!」と言う方法をとってしまう。これでは子どもはなぜ駄目か、どうした方が自分と相手にとってよいのかを考える機会を失ってしまう。自分の感情を言葉にし、それを相手に伝える行為は、当たり前のようで今の子どもには学ぶ機会がないのである。「考えること」とは自分の言動、行動を客観視し、溢れる感情にブレーキをかける自制心となるのである。
友達を大切にする「義務」
「ゆとり教育」「個性の尊重」など日本の教育現場は試行錯誤に揺れている。「子ども」を重視するあまり、学校という社会的環境の意義を見逃している。先生と子どもが友達のような関係を築くことが、子どもを教育する上でプラスになる事とは思えない。また、学校は「個性の尊重」を逆手に取った個人のわがままは受け入れられないと、子どもだけではなく親にも断言する必要がある。
イギリスでは学校のあり方というものを明確に提示している。先生と生徒の上下関係はもちろんのこと、公立の学校であろうと規則に従えない者は通学する資格はないと小学校1年生の時から教えられる。いじめも然りである。実習で通った小学校の校長先生は
「この学校の子ども達は仲間を作り、学ぶという平等の権利を持っている。もちろん、気に入らない子はいるだろうし、喧嘩になる事だってあるでしょう。しかし、それを自分なりに考え解決し、より良い学校環境を創る義務がある」
と述べられた。
「義務」という言葉に私達ははっとさせられる。当然の如く与えられる「教育を受ける権利」とともに「学校と友達を大切にする義務」の存在を忘れているのだ。親は自分の子どもの学校での「権利」ばかりを主張する、行き過ぎればクレーマーともなりうるわけだが、子どもの「義務」については理解していないに等しい。「あなたは他の子たちが気持ちよく学校に来る事ができるよう振舞う義務があるのよ」とどれだけの親が我が子に言えるであろうか。
いじめは年齢を重ねるごとにエスカレートする。事実、児童心理士の山脇(2006)はいじめの手口が携帯電話、インターネットを使うなど巧妙になり、大人がうまく介入できない事を指摘している。エスカレートする前に私達ができること、それこそが幼い時から対話を通して育てる、他者の心を理解しようとする「共感する心」なのである。
変わるのは大人から
今の大人は「美味しいね」「きれいだね」「怖かったね」「痛かったね」、そんな感情を子どもと共有しているだろうか。
「待って、今忙しいんだから」
とその気はなくても子どもを蔑ろにしてはいないだろうか。
昔から「子ども」自体は何も変わってはいない。彼らを取り巻く環境が変わったのだ。私たち大人は誰もが子どもの健やかな成長を願うが、彼らは健全な大人社会があってこそ育つのである。子どもは「~は駄目よ」と言われているから、後で怒られるから禁止されている行為をしないのではない。Toren(2002)が彼女のリサーチで幾度となく繰り返しているように、子どもは彼らなりに社会生活の相互的関係の中で意味づけし理解するのである。
そうだとすれば、いじめ問題はもはや子どもだけ、学校だけの問題ではない。社会全体の問題である。経済大国といわれて久しい日本であるが、私達は確実に何かを失っている。社会全体がイライラし、大人だけではなく、子どもまでもが自らの命を絶っている。
「こんにちは。今日も暑いですね」
それだけで会話が始まる社会であってこそ、本当の意味で自分の生活圏に他者を入れ込み、相手を思いやる心や優しさを育てるのである。大人がまず変わること、そこに日本の子どもの未来がかかっている。
おわりに
このエッセーでは「共感する心」の育成に重点を置いていじめ問題の改善法を提言してきた。今やいじめは学校、家庭の問題だけではなく日本社会の問題である。私達は日本の将来を担う子どもたちのことを本気で考えて教育改革を進めているだろうか。情報・消費社会にこのまま子どもたちを巻き込んでいいのだろうか。大人達に対する問いかけはいくらでもある。子どもが社会の鑑であるならば、「子どもがおかしい」イコール「社会がおかしい」のである。「共感する心」は対話から始まる。誰でもすぐにできること、自分の周りにいる人に声をかけることから始めよう。
References
・野上暁(1998)『"子ども"というリアル:消費社会のメディアと"もの"がたり』パロル舎
・山本公弘(1996)『大脳生理学から子どもを見ればよくわかるメンタルヘルス』東山書房
・山本由貴子(2006)『教室の悪魔』ポプラ社
・Toren Christina (2002) Space-time Coordinates of Subjectivity in Fiji in Bennardo G (Ed) Representing Space in Oceania: Culture in Language and Mind Canberra: Pacific Linguistics, Research School of Pacific and Asian Studies, Australian National University