「SOS」子ども学会様ー「いじめ」「仲間外れ」を使用禁止にー

戻るチャイルド・サイエンス懸賞エッセイ<2007年度 受賞者>

 

岩田信義

要旨
 いじめの指導の困難さの大きな要因が言葉の定義が曖昧なことにある。「いじめ」という言葉は必ず大きくイメージが異なる別の言葉に置き換えられる。悪口を言ったりあだ名で呼んだりするのもいじめなら、集団リンチや、恐喝もいじめである。他人の悪口を言ったことがない人もあだ名で呼んだ事のない人などこの世に存在するのだろうか。みんないじめ、いじめられして成長する。
 しかし、「いじめ」と一と括りにされて、集団リンチなどの凶悪犯なみのイメージで語られることが多い。
 統計も、報道も、議論も、研修も、政策までもイメージの違いを無視したまま進んで、結局は空回りということになってきた。
 急がば回れ、まどろっこしいようだが、言葉の定義をきちんとし、それからじっくり方策を考えようではないか。

 

 「いじめ」という言葉は曖昧である。
 この曖昧さが、昨年末には校長を一人殺してしまった。なのに、文科省はさらに「定義の拡大」をもってさらに曖昧さを増大した。これが、教育現場にさらなる混乱を起こしつつあると推測される。
 このままでは次の犠牲者が出る事が十分予想できるので、子ども学会で、この「いじめ」という言葉を使わない提案をするか、厳密な定義をつけるようお願いする次第です。

一、校長を自殺に追い込んだ「概念の拡大」

 「創」誌、本年二月号に掲載された同志社大学教授浅野健一氏の「校長を殺したのは『いじめ隠し』報道か」によると、「いじめを隠していた」と報道されて小学校の校長が自殺した。保護者の多くは新聞記者が殺したと感じているらしい。いじめ被害者?の保護者からの話を鵜呑みにして「いじめ」を隠していたと報道した事が校長自殺の主な原因らしい。ところが学校は、この「いじめ」と報道された件を「金銭トラブル」という認識で熱心に指導し教育委員会にも報告していた。
 一人の五年生の児童が家から多額の金銭を持ち出しグループで使っていたことは事実のようだ。
 一つの行為を新聞記者は「いじめ」と表現したが、校長は「金銭トラブル」との認識だったようだ。教育委員会は、学校が金銭トラブルとして指導することを了解していたらしい。この金銭トラブルという言葉にも多様性があるがそれは後回しにする。教育委員会は、記者の取材を受けるうちに「金銭トラブル」という認識から「いじめ」という認識に変わったようだ。浅野氏は、この取材について「圧迫取材」の疑いがあると述べている。
 何故、「金銭トラブル」がメディアによって「いじめ」と表現され、教育委員会の認識が揺れたのか。この点が一番大事なポイントである。用語の厳しい定義をしなければこれからも起こり続ける問題である。
 不当な金銭のやりとりを普通の言葉で表現すれば、「金銭トラブル」、「たかり」、「ゆすり」、「恐喝」、「窃盗」、「詐欺」、「強盗」などがある。人間のコミュニケーションの手段として言葉ができた。話し手(書き手)の頭に浮かんだ事が正確に聞き手(読み手)の頭にも浮かぶように表現するのが、正しいコミュニケーションである。
 特にいじめに関するコミュニケーションでは、話し手の語感と聞き手の語感が一致しないことが多い。金銭の不当授受に関するショック度について私個人の感覚で軽重をつければ、金銭トラブルが一番軽くて、たかり、詐欺、窃盗、ゆすり、恐喝、強盗の順に凶悪になるような気がする。しかしこれをどう区別し、どう使い分けるかということの共通認識は困難というより不可能に近い。
 対象となる子供の年齢、または認識能力の問題が大きくからむ。もう一つ金銭の額も左右する要素であろう。この事件では小学校五年生の年齢と消費した金額が数万円という多額であったところが、言葉の使い方を難しくさせたようだ。浅野健一氏は「持ち出した本人も一緒に消費している」ことから「たかり」という表現を使っておられるが、わたしもこれに賛成である。ただ、保護者同士の話し合いがついていない情況であったので、校長の「金銭トラブル」という認識も正しい。
 何故、この「たかり」または「金銭トラブル」を新聞記者が「いじめ」と表現することを可能にしたかを考えなければならない。
 文科省は、当時、いじめの定義を「自分より弱い者に対して、身体的、心理的攻撃を継続的に加え、深刻な苦痛を与えるもの」としていた。おそらく何度も金を持ち出させるためには、脅したりすることもあったろうし、それを本人が苦痛に感じていたことも推測できる。だから記者は、「金銭トラブル」や「たかり」より衝撃的な「いじめ」という言葉を使ったのであろう。校長は、金銭トラブルとして教育委員会にも報告していたし、きちんと調査し解決のための努力を続けていた。ただ、教育委員会への報告には「いじめ」とはなっていなかった。その点についての、教育委員会と記者とのやりとりに、「いじめ」という報告の有無についての質問があり、教育委員会は「いじめ」の報告は無いと答えたのであろう。それが「いじめ隠し」と報道され、校長は抗議のため自ら命を絶った。
 なぜ「たかり」ないしは「金銭トラブル」が「いじめ」に化けるのかは、文科省が前記のような発生学的、生態学的定義はしても、形態学的、分類学的定義をしてこなかったからである。
 私案であるが、煩雑でも正確なコミュニケーションのために、多岐に使用可能な「いじめ」という言葉を使わないようにするのがよいと思う。どうしても使わなければならないときには、暫定的にいちいち注釈をつけるよう提議する。「A君は、B君をいじめ(金銭トラブル)た」のようにである。

二、同じ問題を含む言葉「仲間外れ」

 もう一つ、きわめて大きな危険を含む言葉として「仲間外れ」を挙げておきたい。
 この「仲間外れ」という言葉は、いじめの一つの形態として認知されているが、仲間外れという言葉は二つの違った概念を持ちながら同じように使われている。
 一つは、クラスとか部活動とか学校が教育手段として人為的に作った集団から相手にされなくなる、いわば「クラス外れ」「部外れ」と呼ぶべきものである。これは、学校が担任や顧問を置いて指導して居る集団なので、ここから排除されるような子供が出れば「いじめ」であろうし、担任、顧問の指導力の問題として学校は責任を問われる。
 もう一つは本来の意味の仲間、つまり好きな者同士が自発的に集まったグループから排除されることである。この仲間の結び付きには、恋愛関係や友情関係、趣味仲間、遊び仲間、通学仲間、塾仲間、最近では手軽で別の自分に変われるようなパソコンや携帯電話媒介のメル友、ゲーム友、TEL友など、いろいろなレベルの多種多様な結びつきがあるが、成長や環境の変化にともない離合集散するのが普通である。不当な排除の手段が用いられない限り、教師も含めて第三者が容喙すべきことではない。離合集散の中で、恨んだり、嫉妬したり、やせ我慢をしたり、「死にたい」ほど落ち込んだりしながら、耐性を身に付け、人間関係をよくする能力を育てるのである。これは、教師や親がどんなにがんばっても教えることができない、そして生きる上での最も大切といっていい能力である。
 しかし、グループに強い結びつきがあればあるほど、そこから排除された場合は深刻になる。自分の全存在が否定されたと思い、あるいは居場所がなくなったと思い、自殺を考える者が出てきてもおかしくはない。自殺は防がねばならないが、この離合集散は人間の成長に絶対必要な行為であって、どんな結果になろうとも責めることは社会正義に反する。失恋はたいがい相手が悪いと思いがちだ。
 「クラス外れ」「部外れ」という言葉は、一般的には認知されていない。それでメディアには、「クラス外れ」という意味と「仲間外れ」という意味の違いが理解できていないと思う。だからメディアに取材を受ける場合にはこの区別をきちんと説明しなければならない。ほとんど学校に責任がないはずなのに、クラス外れと誤解されて非難を受けることになる。次ぎの自殺の可能性が浮かび上がる。

三、さらに危険は増大した

 今まで文科省は、いじめの定義を「自分より弱い者に対して、身体的、心理的攻撃を【継続的】に加え、相手に【深刻な苦痛】を与えるもの」としてきた。それを【継続的】という言葉を外し、一回でもいじめとすると変更した。
 さらに、【深刻な苦痛】を「被害者が苦痛を感じたらいじめである」ということにした。
 正確なコミュニケーションに必要な、分類学的な定義をしないまま生態学的定義の範囲を広げてしまった。
 この度の改悪は、凶悪犯罪を思わせるような「いじめ」という言葉をさらに曖昧にしてしまった。今までいじめではないと思っていた「けんか」や「あだ名で呼ぶ事」まで「いじめ」の範疇に入る可能性が出てきた。分類学的定義をしないままでは、末端で「いじめ」の調査票に記入する学級担任や生徒指導担当者が判断に困る。困った結果、あちらに記入したりこちらに記入したり、これでは統計の意味をなさない。メディアの前に出れば、お互いこの分類学上の定義を持たないまま語り、勝手な解釈を加えるので揺れ動く。
 小学校長の自殺は、校長も記者も、そして教育委員会もこの分類学的定義を持たないから起こった悲劇である。

終りに

 文科省は動きそうにないので、権威ある子ども学会で「いじめ」という語を分類学的に定義してください。すでに犠牲者も出ていることなので、なにとぞよろしくお願いします。
 もうひとつ「いじめ」という言葉の中に今まで「継続して」とか「同じ集団内で」とか「すでにある人間関係ができている者同士」という、共通の了解があったような気がしていましたが、「一回でも」、「被害者が苦痛を感じたら」という文科省の新しい定義は日本語の用法を乱しているのではないかという疑いがあるので、この検討もお願いします。
 「仲間外れ」という語の語彙、さらに「いじめ」という語にふくまれている、あらゆる言葉の適切な使用法についても検討いただけたら幸いです。

 付表
 いじめ分類表の私案を付けております。生物分類表を念頭において描きました。叩き台のつもりで検討いただけたら、現場は助かります。

いじめ分類表

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