子どもの不思議―子どもは、何故泣くのだろうか―
坂口伊都(花園大学社会福祉実習指導室講師)
子育てをしていると、泣きわめく子どもに肩を落とすことが多い。子どもの泣き声に、周囲の大人は苛立ちを覚え、子どもをあやす言葉も語調が強まる。子どもの周りの大人は、子どもの泣き声がうるさいと感じ、次第に苛立ちが増幅される。子どもは、大人の保護なしでは生きてはいけない存在であるにもかかわらず、子どもが泣くという行為は、大人を不快にさせている。子どもにとって、大人に愛おしいと感じさせる方法を取る方が得策のはずだ。では、子どもの泣き声にどのような意味があるのだろうか。
また、大人から怒られながら泣き続ける子どもの姿を見て、子どもが泣くことの意味を探求すべきではないかと感じ、子どもとのコミュニケーションから、考察を試みた。
はじめに
子育てを実際に体験してみると、いかに自分が「子ども」を理解していなかったか、痛感させられる。まず、産まれたての新生児といえば、首がすわっていない、体重は3000グラム前後、泣く、寝る、乳を吸う等は知人や育児に関する本からの情報でイメージができていた。しかし、それらの情報の中でも非常に細かい部分までは語られていない。
例えば、新生児の手足の爪が長くのび、爪の先はかけ、新生児自身の顔を傷だらけにしてしまうことや、乳を飲んでもすぐに吐いてしまうことが多々あること、さらに泣く乳児を母親が抱き上げても簡単に泣きやむわけではないなどである。これらは、非常に細かい部分の内容ではあるが、日常的に行われる子育てとして、体験していく事柄といえる。
初産の母親は子育てに慣れていないため、泣く我が子に戸惑うことが多い。抱き方も肩に力が入り、ぎこちない。母親が抱いたとしても、乳児側にしてみれば、抱かれ心地が悪く不快であるのだから、より一層泣くことはごくごく自然だ。火がついたように泣く我が子に、母親は途方に暮れる。では何故、子どもは泣くのだろうか。お腹がすいた、眠い、暑い、寒いなど不快感があれば泣いて訴える。しかし、その不快を周りにいる大人が正確に察知できる時ばかりではない。子どもの周りの大人は、子どもの泣き声がうるさいと感じ、次第に苛立ちが増幅される。本来、大人の保護なしでは生きられない子どもが、大人を不快な思いにさせる泣き声にどのような意味があるのだろうか。子どもは、大人に愛おしいと思わせる方法を取ることの方が、保護に繋がるはずだが、何故泣くのだろうか、いや、泣かなければならないのだろうか。この子どもの不思議を子どもとのコミュニケーションから、考察を試みる。
泣くということ
まず、子どもが誕生し、最初に親が戸惑うことは、出産と同時に子ども中心のリズムに変わることではないだろうか。子どもが泣けば、乳を与え、オムツを替え、寝ぐずりをあやし、親がどんなに眠く、調子が悪くても子どもの泣き声にあわせ、大人は身体を動かす。
特に、意味もわからず何時間も泣き続ける「夜泣き」は、親の方が泣きたくなる現象であるといえる。その夜泣きが続く時、育児に関する本などの情報に夜泣きを軽減する答えを求めたくなるが、育児の悩みに答える本は、ハウツーものと「子どもは楽しく育てましょう」という道徳的なものが多く、どちらも親の気持ちを解放するものとは成り得ていないという印象を受ける。
ハウツーものは、添い寝をしてあげましょう、軽く背中をさすってあげましょう、日中の運動を増やしましょう、寝る前に興奮させないようにしましょう、お風呂は早めに入れましょう、1日のリズムをつけましょうなどと書かれているが、どれ程の効果があるかは疑わしい。日中の運動を増やしましょうと言いながら、興奮させるなとする2項目は矛盾をはらんでくる。また、どのハウツーを必死になって実行しても夜泣きがおさまるとは限らない。逆に寝ながら泣き出しても、そのまま触らずにほっておくと何事もなかったかのように眠りに入る時もある。
逆に、「子どもは楽しく育てましょう」と啓発されても、四六時中、自分の主張をたくみに言葉で表現できない子どもと向き合うことは、簡単なことではない。子どもの意向に添うように親が頑張っても、わからないことだらけに陥ることも多く、子育ての責任が母親に集中している現代では、母親失格の烙印を自分自身に貼りつけてしまうケースもある。まだまだ続く子育てに楽しいとばかり感じられるものではなく、イライラが募り、泣きたくもなり、腹が立つ時もある方が自然だろう。楽しく子育てできれば、それに優るものはないが、常時、子育てを楽しいと感じられる人は、自分に無理をしているか、悟りを開いているかどちらかだろう。人は、楽しいことや嬉しいことの他に必ず恨みや憎しみを持つものである。
それでは、もっと親の気持ちを解放する情報とは何か。それは、子どもにとって泣くことは、学び、労働、運動であるのだから、「泣いていてもいい」というメッセージと周囲の理解ではないだろうか。「泣く=悪」と捉えていれば、親にとって子どもの泣き声は想像以上のストレスとなる。子どもは、生き延びる手段として不快を感じたら「泣く」という行動で大人の関心をひくというコミュニケーションを生得的に身につけている。泣いて知らせることができることを素直に喜ぶことも必要である。
言葉と泣くこと
子どもも2歳頃から、発話量は急速に増加する。子どもの発話は、生後9ヶ月頃から「ママ」「マンマ」「バババ」等の喃語から始まる。一般的に「ママ」は、母親を示す言葉として使われるが、子どもが始めから母親を呼ぼうと認識して「ママ」と言っているわけではない。大人の行動や話しかけから言葉の意味をだんだんとつかんでいくため、ある程度、言葉が出てきている子どもでも意味合いを間違えて使用していることは多い。特に明日やさっきという時間的概念の理解は難しく、「今日は、何をして遊んだの」と質問をしても、1週間以上前に家族で出かけたことを語ったりする。また、子どもが夢中になっている遊びの途中で、「また後でやろうね」や「明日ね」の大人の言葉がけで、その遊びから引き離すことは、まずできない。
しかし実際は、泣いている理由を子どもの言葉に求めようと試みていないだろうか。例えば、食事の前にお菓子を食べたがる子どもに「ご飯食べてから」と促すが、その説明で納得できない子どもは「イヤ」を繰り返す。その内に、大人側が怒りを表面化させ「ご飯食べてからでないとダメ」と威圧をする。子どもは自分の主張を拒否され、泣いて抗議をする。子どもが一端、本気で泣き出せば時間をかけなければ泣きやまないことは、子どもと日常的に関わりを持つ大人ならば、誰もが体験済みだろう。子どもは、お菓子を食べられないことに対して泣き始めたとしても、怒られた事実などが付加され、何で泣いているのかわからない状態に陥る。その状態に入ってしまえば、大人が根負けをしてお菓子を手渡しても泣きやむことは難しい。まして、大人が子どもの泣き声に苛立ち、「もう、泣かないの。泣きやみなさい」と訴えても、その口調に触発され、また泣き続ける。最後には、大人が怒鳴り散らし、子どもは泣きわめくという修羅場に行き着く。まさしくこれは、悪循環であるといえる。
大人側の理解で言えば、「ご飯を食べてからでないとダメ」と威圧を行った時点で、子どもが言うことを聞けば一件落着することで、泣く子どもはわがまま、言うことを聞かない、悪い子という解釈ができる。
では、子どもの側はどうなのだろうか。子どもにしてみれば、ご飯を食べることよりもお菓子を食べる方が重要であり、何故ご飯を食べなければならないのか、明確な理由を理解しているとは思えない。また、時間の概念が曖昧なため、ご飯を食べてからという未来を察知することが難しく、今したいことを阻止されることに抵抗を感じているだろう。子どもの焦点は、未来を見越して行動しようとする大人とは違い、今ここにあると考えるべきである。このように捉えることで、大人も子どもも互いに相手が理不尽なことを言っていると解釈できる。ただし、言葉が堪能な大人は言葉によるコミュニケーションを求めるが、子どもは言葉の意味あいが曖昧で生得的に持っている「泣く」というコミュニケーションに偏ると考えられる。
泣きながらの成長
では、子育てをしている日本の住宅事情は、どうなっているのか。日本の多くの土地では、近隣が迫っており、子どもの泣き声はよく響くため、夜泣きをすれば、うるさいと近隣から苦情を言われる。近隣にしてみれば、明日も朝が早く、寝たいという気持ちも理解できるが、少子化で子どもの数は減少し、子どもの泣き声が目立つものとなってしまったことも苦情の要因となっていると考えられる。
また、児童虐待防止法の施行で、子どもを泣かせてばかりいると虐待をしているのではないかと近隣から疑われてしまうという不安も募る。
しかし実際に泣かない子どもは、いない。母親の胎内から出て、泣かなければ呼吸をしておらず、そのまま放置しておけば死に至ってしまう。出産時は、子どもの元気な泣き声を聞き、誰もが安堵する。子どもにとって、「泣く」ことは命に関わることなのである。
子どもが成長していく中で、だんだんと「泣く」ことの意味が悪いことや子どもの心理状態が悪いこととして捉えられていく。児童虐待のケースでも、「子どもが泣きやまなかった」「言うことをきかなかった」「なつかなかった」等の理由が言われることが多い。大人にとって、子どもに泣かれることは、大人の言葉も届かない状態で、耳障りになっている現状がある。
発達途中の子どもは、言葉のコミュニケーションでは通じないことが多い。子どもは、泣いて命を守り、そして成長をしている。子どもの泣き声に苛立つ大人の社会は、子どもが泣くことの真意を忘れてしまっている。今の子どもには、「泣きたいだけ、泣けばいい」と受け入れる大人の土壌が必要なのである。