子どもの不思議~子どもの問題解決能力に関するノート(その1)

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稲葉武司(建築と子供たちネットワーク代表)

はじめに

 近くに住む7才、5才、3才の孫娘たちは折にふれて我が家に遊びにくる。そしてなにかにつけては「どうして」と「だって」を連発する。「どうして」は疑問を感じることすべてに発せられ、「だって」はすべての理由に必ずついてくる。
 孫たちの「どうして」と「だって」にいささか閉口していた私だが、ある日、この言葉は孫たちの問題解決能力の発達のキーワードであることに気がついた。そこで、このキーワードにまつわる私の「なぜ」と「だから」を思いつくまま書きとめてみることにした。


情報を選択する

 問題解決の問題を"情報"という言葉におきかえ、"生きるため"を解決の基準ということにすると、この能力はすべての生き物の営みにあてはまる。生き物にとってこの世界は情報にあふれている。移動する物体の位置や早さ、輪郭、音、光と影、寒暖、湿気、匂いなどありとあらゆるものが情報である。これらの情報を的確に検知するしくみを欠いた生き物が命を長らえるのは難しい。
 このしくみとは生き物すべてにそなわる感覚器官とそれがもたらす情報を処理する神経系統である。感覚器官は生き物にとってセンサーである。しかし、それが検知した情報全てに応答し行動するかというとそうではない。どの生き物も自己の生命維持という基準に合わせて選択的に応答する。それをわれわれは本能的な行動という。
 多くの爬虫類には目の前でたてに動くものより、横に動くものに素早く反応する傾向がある。それはかれらの餌となる生き物の動きと関係している。そして多くの場合かれらの情報の検知と応答とは一瞬の間である。そのための感覚器官、情報処理、応答のコンビネーションは生まれたときからできている。つまり、それは学習の結果ではない。
 人間を特別な生き物にしているのは、情報の検知、探査、選択、応答のしくみができあがるまでの時間が他の生き物に比べて圧倒的に長いことだ。人間の感覚器官の働きは他の哺乳類などにくらべ、けっして鋭いとは云えず、生命を維持するだけが生きる基準でもない。「本能の壊れた生き物」と言われるだけあって人間は情報の感じ方、応答のスピード、選択の基準などがかなり未完成まま生まれてくるようである。
 人の感覚が情報を選ぶしくみが最も分かりやすいのは視覚であろう。人間にとって、ものごとをありのままに見るのは易しいことではない。というのは、目の網膜には神経の密度の濃い部分と薄い部分があり、詳しく知りたいものは密度の濃い部分に像を結ぶよう努力、つまり注視しなくてはならないからだ。
 神経の密度の薄いところで見える範囲を周辺視、濃いところを中心視という。前者についていえば、人の目の視野は左右150°、上下130°くらいだが、後者だけなら上下左右3°にも満たない。たとえていうと、人の目は外がぼんやりと見えるすりガラスの真ん中にとても小さい透明部分がある窓に似ている。
 目の第一の役目は外界の視覚情報を検知することである。ものの位置や動き、明暗、大小、輪郭、色などの情報はすりガラスの部分で十分である。そのうちのどれかについて詳しい情報が欲しいとき、脳からその部分を注視するよう目や首の筋肉に命令がでる。そこで、身体は目の透明な部分を見たいところに一致させようと動きだす。とは云っても、その時間は0.2から0.5秒くらいのものである。
 こうした一連の動きが「注目」である。対象が十分小さければ、ちらりと視線を走らせるだけでよい。しかし、複雑なもの、大きなもの全体を詳しく見るには時間がかかりそれなりの工夫がいる。この意味では、目ほどでないにせよ、どの感覚器官も外部情報の検知・探査と脳の働きの関係は同じようなものである。たとえば、聴覚は聞き耳をたてるというように、周囲の騒音の中から特定の音だけを拾って聞きとる。味や匂いについてもまた同様である。
 それゆえ、人が見たと思っている世界、囲まれていると感じている世界は、無数の情報を幾つかの感覚が選択した結果を脳が合成した世界、ありのままではない現実、つまりイリュージョンだといってよい。ということは、その記憶もまたイリュージョンということになる。だから人間は、何かのきっかけで現実ばなれしやすい生き物なのだ。それが軽いうちは自分にも他人にも害はない。
 しかし、実際の世界と脳の中につくられる世界との間にあまり大きな差があっては不都合もおこる。それゆえ人間が環境に即して生きていくには、生まれおちたときから情報の集め方と組み立て方の練習をしなくてはならないのである。
 生まれたとき400gくらいの脳は4才でその3倍、11才で成人の水準に近くなる。この間が情報選択と応答の基本的な神経回路を構築し活性化する最も大切な時期である。それをないがしろにすると後でいろいろと困ったことになる。
 生まれたばかりの赤ちゃんでも感覚器官と脳の基本的回路の配線はされているが、そこに十分な刺激を与えることを怠ると脳本来の性能は発揮されない。希な例だが、新生児をある期間以上光のない場所、音のしない場所で育てると、視覚や聴覚はあっても情報処理の神経回路が未熟なまま固定されてしまう。そのため自立してからの生活に困るようなことがおこる。これは遮断性の視覚障害とか言語障害といわれ、学習障害の原因になったりする。


遊びとしつけと頭のはたらき

 情報の選択と応答の練習の第一歩はなんといっても遊びであろう。赤ん坊の一人遊びは能動的な情報探査の始まりである。遊びには幼い動物にとって情報の検知・探査・選択・応答の基本的な神経回路を刺激して起動するという大切な役目がある。赤ん坊は身体の成長にともない何にでも興味を示すようになり、それにたいして大人は喜んだり、眉をひそめたり、はらはらさせられたりする。その仕草はいろいろな動物と人間に共通するようでほほえましい。
 幼い子どもがひたすら遊びに熱中するのは、情報の選択と応答の神経回路がつぎつぎとジョイントされていく充足感からなのだろう。だから大人には、子供の自発的な遊びを助長する環境をととのえる責任がある。動物の親は本能的にこの役割を果たしているようだが、今の人間の親たちは果たしてどうだろうか。
 人間でも赤ん坊のうちは情報処理と応答のレベルは他の哺乳動物とあまり違いがない。しかし、幼児ともなると多少複雑な情報に直面するようになり、単純な応答では満足できる結果が得られない。つまり、頭をつかう必要がでてくる。このころから「どうして」と「だって」の連発が始まる。人間の前頭連合野のはたらきは急速な発達をみせ、幼児の知恵はそれまで並んでいたチンパンジーの知能を一挙に追い越す。また、このころ前頭連合野の回路のトラブルといわれる注意欠陥多動性障害(ADHD)がみられるようになる。
 この時期、遊びと同じように重要なのが衣食住と人間関係にまつわる日常生活の基本動作Activities of Daly Life、略してADLの形成である。これは幼児にとって食事、着衣、トイレ、挨拶などのしつけに他ならない。ADLは自立した人間、家族や社会の一員として生きていくのに必要な習慣であり、学習によって身につくものである。このことは多くの高等動物にもある程度はあてはまるようである。
 しつけには、外部からの情報だけではなく、体内情報である飢え、渇き、便意、尿意、快感、苦痛などの生理感覚、喜怒哀楽などの心理感覚の処理も含まれる。言葉はこの複雑な情報処理に必要な道具であり、他の動物はこれを持たない。
 自分のさまざまな感覚をなんとか手持ちの数少ない言葉に変換しようとするとき、思わず「どうして」と「だって」は子どもの口をついて出てくるようである。
 こうした一連のプロセスの中で注目したいのが、つぎに挙げる4つの精神活動の繰り返しである。

1) ワーキングメモリーを活用して、課題を実行している間、最初の刺激を与えた情報を心の中に留めておく。事態を評価するために、情報と情動・感情を区別する。
2) 過去の概念をもち、そこから未来の概念をつくりあげる。
3) 自分に話しかけ、それにより自分の行動をコントロールする。
4) 取り込まれる情報やメッセージを分解・統合して新たなメッセージや応答として外部に発信する。


 この4つの精神活動は、ADHDを人の行動の抑制機能の観点から説明しているラッセル・バークレー博士が、前頭連合野の働き「実行機能」と呼んでいるものである。一言でいう「頭をつかう」とはこのはたらきを自覚することであり、つかわなければ発達もない。
 パジャマの後ろ前や裏表、箸の手と茶碗の手、靴紐結び、トイレの使い方、挨拶の仕方など大人には無意識にできるありとあらゆることを、子どもはほめられたり、おこられたりしながら身に付ける。そのどれもが子どもにとっては問題解決であり、その間、前頭連合野では、4つの精神活動がまんべんなく繰り返されている。
 このように考えるとADHDが年齢と共に解消することがあることが分かるだけでなく、いわゆる放任が、実行機能の働きを偏らせたり遅らせたりしてADHDのような振る舞いを形成することも分かる。


創造性をのばす

 前頭連合野の働きを一段とレベルアップするには、子どもは子どもと遊ばなくてはならない。というのは、同じように実行機能が働いても、しつけは受動的で、その挙動には必ずお手本があるのに対して、子ども同士の遊びは能動的で、動きの形やルールは子ども自身が決めるものだからである。そこから発明や発見が生まれ、創造性が育っていく。遊びの主体はあくまでも子ども、そして自由が鉄則である。はらはらしながらきちんと見守ることが大人の役目なのだろう。
 創造的な問題解決には「頭」をつかうが、多くの場合「手」を欠かすことができない。水中の動物では最も知能の高いといわれるイルカの前頭前野は非常に小さい。これは、一般に手の退化した動物にみられことであり、手をつかう必要のない生き方と関係していると云われる。
 問題解決の多くが手をつかうこと、道具をつかうことに結びついていることが人間の前頭連合野の発達をここまで導いたのは確実なことらしい。とすれば、しつけでも遊びでも、手をつかうこと、いろいろな道具をつかうこと、そして頭をつかうことのコンビネーションを積極的に取り入れなくてはならない。

 というように孫たちの遊びを理解しているつもりの私だが、彼女たちがいつも後片づけ半分で帰ってしまうことについて、その母親、つまり私の娘に小言をいうと、一段と磨きのかかった「どうして」と「だって」つきの口答えが返ってくるのである。彼女は本当に大人になったのだろうか。発達論的にはどう考えるべきなのだろうか。私はこれを研究ノートの項目に加えるかどうかを目下思案中である。

 

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