世界中の子供が鬼ごっこをするのはなぜか
島田将喜(京都大学大学院理学研究科人類進化論研究室)
鬼ごっこは世界中の子供たちが好んでする遊びである。もっとも単純なものであっても鬼ごっこには規則がある。しかし鬼ごっこが世界的に広まっている現状を説明するには「ヒトはもともと子供の時には鬼ごっこをする動物である」という仮説の方がそれが一つの地域から伝播したと考えるより合理的だ。餌付けされたニホンザルのコドモたちは一つの物を持ち手を交代しながら遊ぶ「枝引きずり遊び」をする。この遊びには「物の持ち手は逃げ、その他の持たない方は追いかける。物を奪ったら逃げ手になる」という規則があると考えられた。こうした規則とそれによって生じる構造上の類似性などから、枝引きずり遊びは鬼ごっこの原形の起源であると考えられるのである。規則のある遊びはサルでもヒトでも生得的にできるわけではないが、「ゆとり」がある集団では自然に生じると考えられた。枝引きずり遊びのような遊びが、ヒトという種が起源してからは様々なヴァリエーションを生じ、鬼ごっことして現在の世界的分布を保っていると考えられる。
はじめに
絵巻物「鳥獣人物戯画」やブリューゲルの絵画「子供の遊戯」に描かれた遊びの数々を、自分の子供時代を想い起こしつつ眺めていると、その遊びの多彩さに目を奪われると同時に、洋の東西、時代の前後を問わず様々な遊びがよくもこんなに似ているものだと関心してしまう。地球上の異なる文化 ・地域集団において、その集団に独特な遊びがあると同時に、集団間でよく似た遊びが同時的 ・通時的に見られるという現象が、様々な遊びに関して知られている(青柳1977、大林他1998、ホイジンガ1938、森1989)。
こうした遊びの一つに「鬼ごっこ」をあげることができる。様々なヴァリエーションがあるもののこの遊びは世界各地から多くの現地調査者によって報告されている[1](大林他1998)。また現在の子供たちだけでなく、古くから日本、中国、欧州などの地域に鬼ごっこがあったことが知られているし、もちろん「鳥獣人物戯画」や「子供の遊戯」にも描かれている(小松1987、酒井1935、松浦1907、森1989、柳田1976)。鬼ごっこが見当たらない民族集団はどこにもないかのようだ。
なぜ鬼ごっこは世界中の子供たちの間でこれほど一般的なのだろうか。
鬼ごっこの原形
鬼ごっこのヴァリエーションは世界中に無数にあるが、それらの全ては、遊びの形式がもっとも単純な「原形」に様々な要素や条件を加えることで派生したものと捉えることが可能である(半澤1980)。そして次のような鬼ごっこがその原形であると考えてよい。
「何人かの子供たちの中の一人が鬼になり、その他の子供は、全て子(逃げる人)になる(相補的役割)。鬼が子たちを追いかけて、その中の一人を捕えれば、捕えられた子が新しく鬼になって交代する(交代)。」
おそらくこの記述でイメージされる遊びが、もっとも一般的な鬼ごっこではあるまいか。この記述の重要な点は、第一に鬼ごっこの原形が遊びとして成立するためには、「相補的役割」だけでなく、その「交代」を定める規則という少なくとも二つの規則が遊ぶ子供集団に共有されていることが必要なことである。そして第二に「鬼」とは単に追いかける役割の名前であり、日本ないし東洋に独特な民俗学的概念としての 「鬼 」(折口2000)はここでは第一義的ではないという点である。
もっとも単純な鬼ごっこの原形にも規則があり、複数の子供が単に「走る」ことによって成立する「追いかけっこ」とは異なる(神田1991)。規則があることで、全体として一対多(鬼対子)の追いかけっこという形式を、コドモたちが持続することが可能になっているといえる。
以下では鬼ごっことは、「追いかけっこ」に複数の「規則」を加えることで持続的になった遊び、と定義する。
鬼ごっこ起源の仮説
鬼ごっこの世界的分布を説明するには、ある地域から他の地域に伝播したと考えるよりは、「ヒトとはもともと子供の時には鬼ごっこを行う動物である」と考える方が合理的である(Brown,1991)。
この説が正しければ、鬼ごっこの起源はヒトの起源より古いかも知れず、その場合ヒトと祖先を共有している現生の動物種にも鬼ごっこが観察される可能性がある。動物の遊びにおいて発見されるであろう鬼ごっこは、その原形に近いものであろうと予測される。
本エッセイでは筆者の研究対象であるニホンザルの遊びを概括し、予測を検証することで鬼ごっこの謎に迫ってみる。
ニホンザルの遊び
サルもアカンボウ(0歳)やコドモ(1~3歳)のうちはよく遊ぶ。野猿公園で観察していると、コドモたちが実に多様な遊びをするのにすぐに気がつく。広場や木の中、池の中など様々な場所で遊ぶ。一人で寝転がったり、走ったりする「移動運動遊び」はもちろん、石や人が捨てたゴミなどを弄って遊ぶ「対物遊び」も観察される(伊谷1954)。
遊びの中で、もっともダイナミックで観察者の目を惹くのは、複数のコドモが公園内の様々な場所を走り回ったりして遊ぶ「社会的遊び」である。実際多くの霊長類のコドモは、「追いかけっこ」と「取っ組み合い」という2つの代表的な要素の繰り返しで構成された社会的遊びを頻繁に行うことが知られている(早木1990、Fagen,1981、Symons,1978)。
このように、規則のない追いかけっこはヒトを含む多くの霊長類に共通の遊びの要素といえるのだが、ニホンザルの社会的遊びの中に、鬼ごっこのように規則を持つ遊びは存在するのであろうか。
嵐山E群の「枝引きずり遊び」
京都市の嵐山モンキーパークいわたやまに餌付けされたサルの集団、嵐山E群[2]では、一つの物、多くは木の枝(ただしペットボトルなども好んで選ばれる)を奪い合って遊ぶ様子が観察される。枝を持つ方は取られないように逃げるし、一頭または複数の枝を持たない方は追いかけて取ろうとする。持つ方は枝を口にくわえて逃げることもあるが、自分の体より大きい葉ぶりの立派な枝なら手で引きずって全力で逃げる。
一般にニホンザルのオトナは一度誰かに帰属した物を巡って争うことはしない。またコドモ同士が物を巡って「本気の喧嘩」をするのは一度も観察されなかった。これらのことからコドモたちは遊んでいるのだと判断できる。この「枝引きずり遊び」は、一旦誰かが始めると、沢山の個体が参加と離脱を繰り返し、累計すると10数頭ものコドモたちが長い場合20分以上も一つの物を巡って熱中することさえある[3]。
この遊びには明確な規則性がある。筆者が2000年度に実施した調査によれば、その規則性とは「物を持つ一個体は逃げ、物を持たないその他の個体は追いかける。持たない方が持つ方を追いかけて、物を奪えば、奪った個体が逃げる方になる」というものである。いわれてみれば当たり前のようだが、このことは決して当たり前には生じない。
まず、0歳は枝を持っている個体を追うことも、自分が持ち手になって逃げることもしない。1歳は追い手になることは多いが、奪った時直ちに逃げることをあまりせず、物の持ち手になって逃げるのはうまくない。すなわち枝引きずり遊びは、生得的にできるわけではなく、加齢に従いできるようになってゆく。
この遊びが生じるには、物に対する興味が持続することが必要であるが、その対象が何であってもよいというわけではない。実際枝が折れるなどの理由を除いては、同時に二つ以上の物が遊びに使用されることはめったにない。つまり彼らは誰かが持っている、「他でもないその物」だけを遊びに媒介させているのである。
またこの遊びが持続するには、物を持つ方が、持たない方から完全に逃げ切ってしまってはいけないのだが、そういうことはほとんどない。逆に追いかけてくる個体がいなくなると、物を持つ個体は、物に対する興味を失うか、自分で誰かに近づいて追いかけっこを促すことがある。つまり物の持ち手は自分の「逃げる」役割を実行しようとしているかのようだ。
これらの観察から枝引きずり遊びには、「物を持つ一個体が逃げ手、その他の持たない方は追い手」という相補的役割があり、「物の持ち手が交代すると役割も交代する」という交代の規則もあるといってよく、コドモは物と役割の間の関係を学習してできるようになると考えられる。
枝引きずり遊びと鬼ごっこ
サルの枝引きずり遊びとヒトの鬼ごっこの原形を比べてみると、違いは数多い。枝引きずり遊びの場合、役割を定めているのは物であるが、鬼ごっこでは「鬼」という言葉である。枝引きずり遊びでは逃げ手が一頭でその他が追い手であるのに対し、鬼ごっこではその逆である。また枝引きずり遊びでは、遊びへの参入も離脱も自由だが、普通鬼ごっこはメンバーの決まったコドモ同士で行われるといった違いもある(半澤1980)。
しかし二つの遊びの間には、遊びの構造を決めている重要な要素において類似性が見出せる。どちらも相補的役割を定め、交代を定める規則がある。また枝引きずり遊びも鬼ごっこも規則によって、一対多という形式を遊びの全ての時点で生じさせ、サルもヒトも学習によってできるようになる。
こうしたことから、枝引きずり遊びは鬼ごっこの原形の起源と考えてよいだろう。
鬼ごっこが生成するメカニズム
餌付け集団では、人から与えられる高栄養の餌を食べることでエネルギー的に余裕があり、それによって出産率も上がり遊び相手になるコドモも多くなる。また餌場周辺にオトナが休息することが多くなり、コドモは連続して長い時間遊ぶことが可能になる。こうした事態は一般に野生の集団では生じない。この遊ぶためのエネルギーや遊び相手、時間など遊びを制限すると考えられる様々な要因のそれぞれに、ある程度余裕があることを「ゆとり」があると表現しよう。
ニホンザルでは、追いかけっこはどんな集団にも観察されるのに対し、枝引きずり遊びは、現在までのところ餌付け集団や飼育下の集団のコドモからのみ報告され、野生の集団からは報告がない[4]。こうしたことから、枝引きずり遊びは、ゆとりがある集団において単なる「追いかけっこ」に、物を媒介させ、相補的役割とその交代を定める規則をコドモたちが生み出し、受け継いだものと考えられるのである。逆にこうした生成が可能になるためには、ゆとりのあることが必要であるのだろう。
鬼ごっこの原形も似たようなメカニズムで、それぞれのゆとりのある集団において自然に発生したのではあるまいか。ゆとりは、全てのニホンザルやその他の霊長類に常にあるとはもちろんいえないが、ヒトの場合、どんな社会にも認められるといってよいだろう。追いかけっこはヒトに生得的な遊びとして用意されており、ゆとりがあれば、ニホンザルの事例からも分かる通り、追いかけっこが持続的に可能になる規則がコドモの集団内に生み出されうるのではなかろうか[5]。
結論
なぜ世界中の子供たちは鬼ごっこをするのだろう。筆者の考えは次のようになる。ニホンザルのコドモの枝引きずり遊びにも規則が生じていると考えられることから、鬼ごっこの原形の起源はヒトとニホンザルの共通祖先以前にまで遡れるほど古い。ゆとりのある集団のコドモたちの追いかけっこは、サルでもヒトでもそれを規則のあるものに発展すると考えられるのである。原形における役割のそれぞれ(追い手/逃げ手)に対して、言語的、象徴的な意味(鬼/子)を付与するということが生じたのはヒトという種が起源して以降のことであり、その後各地で様々なヴァリエーションが生じ現在の世界的分布が保たれている。
怖い鬼を追うといった大人の行事を子供が真似たのが鬼ごっこの起源であるとする説がある(酒井1935、柳田1976)が、むしろ鬼なる概念が生じるはるか昔から鬼ごっこを子供たちは楽しんでおり、その役割の一方に鬼の概念を外挿した、というのが日本における鬼ごっこの起源の実情であろう。
本エッセイではあえて「生物学主義」的な立場をとったが、こうした視点でコドモを見ることで、人類の遠い祖先たちのコドモたちが鬼ごっこをして遊んでいる様子を想像することができる。これは楽しい想像ではあるまいか。
[2]嵐山モンキーパークいわたやまには2004年夏現在、約157頭のサルが餌付けされており、うち26頭が1歳から3歳のコドモである
[3]ニホンザルのコドモの「枝引きずり遊び」やその他の社会的遊び(「追いかけっこ」、「取っ組み合い」など)の動画を、日本動物行動学会が提供している「動物行動の映像データベース(MOMO)」(http://www.momo-p.com/)から参照できる
[4]現在までに枝引きずり遊びが観察されている嵐山E群以外の集団として、餌付け群の大分県高崎山群(伊谷1954)、同じく餌付け群の宮崎県幸島主群(筆者観察)、飼育群である愛知県日本モンキーセンターのヤクザル群(J.B. Leca私信)などが挙げられる。一方、枝引きずり遊びが「観察されない」群れの存在を確かめることは非常に困難な作業であり、現在も調査を継続中である
[5]この推論からは、ヒトの場合でもゆとりのない子供の集団では、鬼ごっこが生じないだろうという予測が導かれるが、こうした問題の検証は今後の課題である
参考文献
青柳まちこ 1977 『「遊び」の文化人類学』 講談社現代新書
伊谷純一郎 1954 『高崎山のサル』 日本動物記2 今西錦司編 光文社
大林太良、岸野雄三、寒川恒夫、山下晋司編 1998 『民族遊戯大事典』 大修館書店
折口信夫 2000 「鬼と山人と」 『鬼』 小松和彦編 河出書房新社
神田英雄 1991 「追いかけ遊びからオニごっこへ」 『遊びの発達心理学』 山崎愛世心理科学研究会編著 萌文社
小松茂美編 1987 『鳥獣人物戯画』 日本の絵巻6 小松茂美編 中央公論社
酒井欣 1935 『日本遊戯史』 建設社
早木仁成 1990 『チンパンジーのなかのヒト』 ポピュラー ・サイエンス 裳華房
半澤敏郎 1980 『童遊文化史 考現に基づく考証的研究』 第一巻 東京書籍
ヨハン ・ホイジンガ 1938 『ホモ ・ルーデンス 人類文化と遊戯』 高橋英夫訳 中央公論社
松浦政泰編 1907 『世界遊戯法大全』 博文館
森洋子 1989 『ブリューゲルの「子供の遊戯」:遊びの図象学』 未来社
柳田国男 1976 『こども風土記 母の手毬歌』 岩波文庫
Brown, Donald E., 1991 "Human Universals", McGraw-Hill
Fagen, Robert, 1981 "Animal Play Behavior", Oxford University Press
Symons, Donald, 1978 "Play and Aggression", Columbia University Press