わたしの考える「子ども学」~メディア分野における子ども達との新たな関係の必要性

戻る学会設立記念懸賞論文<2003年11月実施>受賞者

 

河村智洋(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科研究員)

要旨
 本論は、筆者が行ってきた10代(小学校高学年~高校生)の子どもを対象にした新しいメディアの利用実態に関する調査研究から得られた知見をもとに述べている。
 筆者は1990年代後半から子どものメディア利用を追っているが、我々を取り巻くメディア環境の変化は非常に速い。それらの子どもへの影響を危惧する声もあるが、新しいあるいは未来のメディア利用を考える際に、環境の変化を正確に捉え、大人と子どもが対等に協調する新しい関係を模索する必要があるのではないかと考える。
 本論では、まずメディア環境の変化について考えたい。そして子ども達の利用実態の事例から彼らのメディア観を紹介する。最後に、今後の情報技術の進展を踏まえ、これからのメディア分野における子ども達との新たな関係づくりについて述べる。
 なお、ここで述べるメディアは、おもにインターネットメディアである。

 

はじめに ~メディア環境の変化

 現在、社会の発達は、IT産業を中心とするデジタルメディアの発達と切っても切れない関係にある。パーソナルコンピュータ、インターネット、携帯電話、これらの新しく生まれてきたメディアが現在の社会システムを支えている。この10年におけるメディア環境の変化は、人々のライフスタイルや思考パターンに大きな影響を与えている。電子メールでメッセージをやりとりし、ホームページを使って情報検索をし、人との待ち合わせには携帯電話が不可欠になりつつある。しかし、このようなライフスタイルを10年前に誰が想像しただろうか。

 しかし、「この10年に大きく変わった」と捉えるのは、変化する前を知っている、あるいは変化の過程を知っている人々(大人)だけなのではないだろうか。この10年間に生まれた子どもたちにとってこれら新しいメディア環境は「はじめから存在していたもの」なのである。この違いは重要な意味を持っていると考える。

 子ども達が新しいメディアに触れることが、彼らに対してどのような影響を与えるかは、大人の予測範囲を超える可能性がある。過去の経験をもとに、新しいメディアを理解し取り込んでいく大人達、おもちゃで遊ぶようにメディアに触れる子ども達とでは、その捉え方感じ方は全く違うことは予想できる。
 90年代の中ごろにポケベルやプリクラが若い中高生の間で流行したときのことを例に出そう。大人達は、朝から晩まで公衆電話や電話のテンキーを使って、「おはよう」、「どうしてる」、「おやすみ」などとたくさんのメッセージを交換する子ども達の姿を見て、またプリクラの機械の前に行列を作り、友達と写真をとっては交換している姿を見て、何が面白いのだろうかと不思議に思っていた。
 しかし、このようなコミュニケーションは、いまやカメラ付き携帯電話、デジカメ、インターネットなどを使って誰もがやっていることだ。そういった意味では、当時の子ども達は、非常にノーマルなメディアの使い方をしていた。当時は異質と思われていたメディア利用の方法が、時がたった未来ではノーマルなものとなる事例は他にも挙げられるだろう。

 メディア環境の変化はとどまることを知らない。実際、これから訪れる変化の方が、ネットワーク社会、デジタル社会という意味では本質的なものになるであろう。
 家庭では、インターネットブロードバンド接続、個人においては携帯電話を利用した高速データ通信が普及する。また携帯電話はデジタルカメラ、GPS、地上波デジタル放送などを取り入れ、どんどん高機能化する。それらが持つ意味を、我々はきちんと考えなければならないのではないだろうか。


子ども達のメディア利用

 筆者は、2003年春より、小中学生にインタビューを行い、彼ら自身の言葉でメディアについてどのような話がなされるのかを記録している。この1年で、大人と同様に小学生、中学生のメディア環境も一変しているが、そのトリガーになったのは、カメラ付き携帯電話の普及と家庭におけるインターネットのブロードバンド化ではないかと考えた。

 インタビューした子ども達が話す言葉から、彼らは、新しいメディアを使って新しい「世界」を手に入れていることが伝わってきた。自分が必要な情報をインターネットから集め、必要な仲間も携帯電話やインターネットを使って自分で集める。そして、自分たちで新しいことをどんどん学んでいくので、その能力は短期間で非常に高くなっている。
 例えば、ある中学生は、フリーのサーバーを使って、自分のホームページを持つことは珍しいことではなく、仲間とホームページの運営をし、放課後のおしゃべりは塾や部活でできないから時間を決めてチャットルームに集まるそうだ。ある小学生が管理人を務める自分の家族のホームページには、家族の旅行の記録などと一緒に、彼自身がパソコンのソフトを作って公開していた。
 また、そのレベルに差はあるが、ネットを使っている子ども達は学年に関係なく、アンダーグラウンドと呼ばれる巨大な掲示板やファイル交換ソフトなども抵抗無く使いこなしていたり、セキュリティに関する意識を持ち、必要に応じてフリーのメールアドレスを使い分けたりプロキシーを変えるなど、インターネット上のルールを経験として知っていた。アメリカでウィルスソフトを作って逮捕されるのは、最近は未成年者が多い。それは未成年を戒めるためにわざと未成年ばかりを逮捕しているのではなく、本当にその分野では彼らが中心となって活躍しているからなのだ。

 このようなことから、子どもは明らかに最新のインターネットコミュニケーションの主役となりつつあるといえよう。大人がパソコンでホームページを作ることを子どもにどう教えるか、ネチケットをどう教えようか、などと議論している間に、子ども達は、自分たちのネットワークで―それはインターネット上だけでなく学校で会う同級生も含めて―急速に知識と技術を蓄えている。子どもの周囲にある「リアリティ」と、大人の周囲にある「現実」には大きなギャップが生じ始めているといえるのではないか。姿が見えない相手とメールでやり取りをする世界をバーチャルな世界だというのであれば、それが自然な行為である世界に生まれた子ども達にとってのバーチャルとは? バーチャルな世界は、すなわち彼ら子ども達の生活する場なのだ。


未来は子どもの中にある

 「新しいメディアはその影響が計り知れないので、子どものメディア接触は慎重に。」という論がある。その立場は理解するが、では、新しいメディアへの接触を禁止し、遠ざければ良いというものなのだろうか。子ども達は成長していくに従って、世界規模のネットワーク社会の中で生きていかなければならなくなるのに。

 もうすぐ、デジタルの時代すら終わるといわれている。現在のデジタルの技術発達は、簡単に言えば、距離を縮めること、つまり小さくすることで行われてきた。しかし、あまりにも小さくなってくると、量子力学の世界に入ってしまい、1とか0では安定して存在できなくなってしまうのだ。その時点でいわゆるデジタルの発達は限界をむかえる。
 だから、その次には、1か0のデジタルから、1と0も重なって存在するカンタムビットを用いた量子コンピュータへと移行する。もちろんそれらをベースとして、まったく新しいネットワーク社会が訪れようとしている。デジタル時代とはスピードも処理能力もデータ量も桁違いに大きくなった情報を扱う世界が、技術的にはもう目の前まできているのだ。

 そんな時代が来たとき、それらの情報をどう扱って行くべきかという問題について考えていくことは非常に重要である。これは、大人達の役割である。しかし、現在の延長線上、これまでの経験をもとにして、そのような時代を想起することはできるだろうか。できるはずがない。なぜならばベースとなる情報技術が根本的に違うから。インターネットのない時代にインターネットのある現在を想像できないのと同じである。だからといって、それを避けて通るわけにもいかない。我々は、それぞれの立場で、これから起こる大変化に対応していかなければならない。

 その時に重要になってくるのは、子ども達との新しい協調関係だと考えている。子ども達がメディアの利用に長けていることは間違いない。その能力は我々大人の能力を凌駕し、大人にとっては思いも寄らないことが起こってくるだろう。もう、大人が子どもに教えるというシステムは、この分野では機能しないことは明らかだ。
 しかし、一方では、彼らにはないものを大人が持っていることも確かである。例えば、経験である。人間として生まれ、育ってくるうちに人の中に蓄えられていく様々な経験は、年齢を重ねれば重ねるほど大きく、そして熟成されていく。子ども達には経験がない。飛び越し現象で、メディア利用に関しては、われわれの一歩前にすぽっと入ってくる。しかし、長く培われた経験からしか生まれないものもある。それらに関して言えば、我々大人もそれぞれの世代でそれぞれの特徴を持っているのだ。

 子どもと大人、互いの長所を尊重しあい協力しあえる新しいシステムを模索していくことを提案したい。パラダイムシフトと言われるが、これから本格的に起こるパラダイムシフトに対して、真剣に取り組むためには、子ども達をもう一度、これまでのしがらみを捨てて、未来の視点からもう一度眺めてみる必要があるのではないだろうか? 今、子どもと大人との間に足りないもの、それはお互いを尊重しあう「信頼」ではないだろうか。お互いが不信感を抱いている中では何も新しいものは生まれてこない。これから、まったく新しいもの、そして世界を生み出すために、子どもともう一度きちんと向かい合ってみる必要があるだろう。

 今の現実から未来を考えるのもひとつの方法だが、未来から反対に現在を見なければ、まったく新しい考え方は生まれてこない。未来は子どもたちの中にあるのだから。

 

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